「旅する家」とは何か? 1
「何か面白いことが一緒にやりたい」
そんな一言から、始まった「旅する家」の活動も、先月完成式を終えてひと段落しました。私としては今後も活動を続けて行きたいので、そろそろ来年の話もして行きたいのですが、その前にまずこの「旅する家」で私自身がどのようなことを行っていきたいのかという意図をみなさんに説明しておこうと、いろいろと書き綴ってみました。書き綴ってみると、あれもこれも説明しておかなくならなくなって、結局こんな長い文になってしまいました。
このようなプロジェクトでは、「アート」や「芸術」という言葉を持ち出しているにも関わらず、「どうしてこれがアートなのか?」ということを参加者にあまり語らずに進めていってしまうことも多く、僕自身はそこに少し後ろめたさを感じていて、専門家というには頼りないですが、経験と少しの知識をもとに自分なりに整理して伝えてみます。
本当は話す方が得意なのでちょっとやりにくいですが、おつきあい下さい。
1:表現について
まず第一に『「旅する家」とは一体なんなのか?』ということですが、私自身はひとつの「表現」であると思っています。ではその「表現」とはなんでしょうか?
この活動が始まった言葉が「面白いことがやりたい」というものでしたが、「表現」とはそんな気持ちが発端になって生まれるものです。もう少し詳しく表すなら「表現」とは、「価値があると思える物や状態を作り出すこと」だと私は考えます。
単に「作ること」それ自体がイコール「表現」ではなく、「こうしたい」「こんなことを伝えたい」という思いがあって、初めて行為が「表現」となります。なので、気持ちを綴った手紙や、旦那さんの事を思って作る料理なんかも立派な「表現」であると僕は思っています。
しかし「意図」がないと「表現」ではないと言うと、自然現象や動植物の行い、偶然や無意識の産物には「意図」ないので、「表現」とは言えないのでしょうか?
確かにそれらはそのままでは、ある出来事が表に現れている「現象」に過ぎません。しかし、そこに誰かが価値を見出し、『この素晴らしい「現象」を伝えたい!』という「意図」をもって表し直す事で「表現」として成り立つようになります。美しい風景や動物の様子を写真に収めたり、雑踏の中の足跡を写し取って絵画にすれば、それは「現象」をきっかけに生み出された「表現」となります。
(以下枠線内追記)
写真や映像、絵画は、身の回りにあるものを切り取って「表現」に書き換えますが、その「視点そのもの」を作品にしている人たちもいます。
大分前ですが、「老人力」で話題になった、赤瀬川原平さんの「超芸術トマソン」という活動があります。これは、建物の改築の都合などで、塗り固められて通れなくなってしまった門や、登っても先に壁しかない階段、ものすごい高い壁にあるドアなど、「建物に付属している無用の長物」のことを指していて、それ自体の全く意味がなさ、役に立たなさが、実は「芸術」なんじゃないのか?という半分冗談から生まれたような活動です。
普段は「なんか変だな?」と違和感を感じながらも、誰もが通り過ぎていた物体に、「トマソン」という名前をつけて、一つの「芸術」だと表明すると、面白いことに全国から「トマソン」の報告例が無数に集まり始め、一大ムーブメントが起きました。一つの視点を「表現」することで、今までは見えていなかったものが、意識に現れる。このような仕組みそのものを表現にしてしまう方法を「眼差しの表現」とでも名付けておきましょう。
(最近の作家で言えば、鈴木康広さんが考え方的に近いかなと思います。下にリンクを貼っておきますので、よかったらみてください。)
僕自身も、幼い頃から好きな絵は描けましたが、うまい絵がかけずに美術予備校で悩んでいた時、赤瀬川さんの「眼差しの表現」に出会ったことがきっかけで、本格的に芸術の分野に足を踏み出すことを決めました。うまい絵がかけなくても、自分の周りをよく見て、面白いものを発見し、それを整理することで「表現」することができる!というのは、当時の僕にとって大きな衝撃でした。
自分の表現にコンプレックスがあった時は、うまい絵が描ける人やいい作品を作る人は、自分の中からどんどんイメージが生まれているのだと思い込んでいましたが、赤瀬川さんの様な手法を真似ながら、他の表現者をみているうちに、そんな人たちも結局はこの「観察」や「発見」があった上で、どのように自分の生み出す発想や線を、そこに乗せていくのかという過程が少なからずあるということにも気づきました。
「表現」にはこのように、自分自身が意図して生み出すものと、様々なものごとの「現象」から発見し見出すものという、大きく2種類がありますが、実はこの2つはとても深く関係していて、切り離せない物です。なぜなら、私たちは全くの無から物や発想を産むことは不可能で、「表現」するためには、これまでにある方法や考え方の上に、上書きして行くほかありません。
なので、どんな表現でも、すでに世の中にある考え方や方法、または自分に備わっている物や身の回りの現象を見直し、「表現の種」を発見することから、その一歩が始まります。そして、見つけ出した種をどうやって自分の物として上書きできるかという順序を通って、「表現」が生まれるのです。
表現のプロと呼ばれる人たちにとっても、何を価値ある物として「発見」できるかという能力はとても重要です。美大芸大の試験に、今でもよく写生やスケッチがありますが、あれも実は書くことではなく、見ること=発見する事の訓練を行う意味合いが大きく、まずいろいろなことをしっかり観察して、面白い物を発見できる「目」を鍛えることを目的としています。もちろん「表現」のモチーフが音ならばよく聞くこと、人の内面や文化ならばよく知ることが、「表現の種」を発見する第一歩となります。
また芸術家は、無から作品や表現を生み出す錬金術士や魔法使いのように思われますが、そうではありません。「眼差しの表現」のように、世界から自分の表現の種を見つけだし、それを表現に磨き上げて発信する姿は、発見した物事を整理して、どのようにしたら伝わるのかを考える、「編集者」のようなイメージの方が近いように私自身は感じています。
これは、表現の「オリジナリティー」の問題にも関わる部分で、作品の独自性、他に類を見ない特徴のことを「オリジナリティー」とよぶなら、前述のように「すでにある考えや方法を上書きしないと表現できない」となると、世の中に完全な「オリジナリティー」をもつ作品なんて存在しないことになってしまいます。しかし反対に、マネする意図を持たずに全く同じ作品を作ることも、またできません。ということは、何か表現を行えば、必ず何かが他と共通し、また必ずどこかが異なる部分を持っているということです。
オリンピックのエンブレムが今年は話題になりましたが、声高に「オリジナリティー」を主張するよりも、自分の「表現」が他の「表現」とどこが共通し、どこが異なるのかということを、きちんと自分で理解して伝えてゆくかが最も重要であり、それがひいては「表現」の「オリジナリティー」に繋がってゆくのだとだと思います。
参考リンク
トマソン:https://ja.wikipedia.org/wiki/トマソン