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「インタビューはまるで映画を観るよう」という表現が不適切な気がしてきた話

以前こちらの投稿で「インタビューには映画を観るような感動がある」という表現をしたのですが、

最近、「ちょっと違うのでは?」という気がしてきたので、適切な表現を考えてみたいと思います。

そもそも、なぜ「インタビューは映画を観るみたいだ」と思ったのか。

それは、話し手の中に必ずドラマがあるから。壁をどうやって乗り越えて、その人自身がどう変化してきたのか。人生の物語を聞くたびに感動するからです。それは今も変わりません。

じゃあ、なぜ「映画」という比喩に違和感を覚えるようになったのか。それは、インタビューが終わった後の身体感覚が、明らかに映画鑑賞の後とは違うなと気づいたから。

映画を観るのは、一般的には受動的な行為ですよね。批判的に観る人もいるとは思いますが、基本的には席に座った瞬間、映像なり音楽なり台詞なりが自分の中に流し込まれていく。

ジェットコースターに乗った後の疲労感にも似ているかもしれません。誰かが設計した刺激を一方的に与えられた後って、ああいう感覚になる。

でも、インタビューの後にそういう身体感覚になることは、まずありません。

どちらかと言うと、裸一貫でジャングルの中に入り込み、自分の感覚だけを頼りに進み、生きるために必要な食物を必死に見つけて帰ってきた、という感じ。椅子に座って何かを浴びている感覚とは全く別物です。

何が言いたいかと言うと、実は「聞く」ってものすごく能動的な行為だということ。誤解を恐れずに言えば、インタビューにおいては「話す=受動、聞く=能動」

話し手の言葉は全てインタビュアーきっかけで生まれるので、ゼロからイチへと最初に一歩を踏み出しているのは、実は聞き手の方なんです。

どの方角に、どのぐらい進むか。何を探して、何を探さないのか。どこまで進んで大丈夫で、どこからはやめたほうがいいのか。それを決めるのは、全部聞き手の「感覚」です。

60分間誰も傷つけることなく、命を落とすことなく、取るべきものを一つでも多く見つけて帰ってくる。インタビューとはそんなサバイバルゲームのようなものだと言われたら、今の私にはしっくりきます。

じゃあ、冒頭の記事を書いた私はなぜ、「インタビューとは映画鑑賞のようなものだ」と言ってしまったのか。

それは多分、まだ聞き手として十分に能動的になれていなかったからだと思う。インタビュアーとして相手の中に飛び込んでいく意識が弱かった。だから、そんな甘っちょろいことを言ってしまったんだろうな。

インタビューは映画鑑賞ではなく、誰も殺さないサバイバルゲーム。今後はこの表現でいきたいと思います(笑)



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