見出し画像

映画『彼女は夢で踊る』を観て思ったことを徒然と。

※以下の文はネタバレを含みます。

◆失っていくものへの思い

配信サービスのレンタル、A4ノートのちっぽけな画面でこの映画を初めて観た時、私は気持ちを抑えきれずに随分と泣いた。結構な深夜だったし、お酒も飲んでいたし、疲れてもいたけれど、心が覚醒するような、感情が冴えわたっていくような強い共感、そんな感覚があって、見始めてすぐにこの映画に夢中になった。

私はストリップを観たことがない。劇中の間抜けな記者のように、閉館するからといって駆け込みで訪れるミーハーな客のように、私も一度は見に行けばよかったな、なんて思う間抜けな人間の一人。
自分が居住する街の繁華街には数年前までストリップ劇場が存在しており、コロナ禍以前の私は多くの時間をその繁華街で過ごしていたし、これまでにそのストリップ劇場の前をきっと何百回も素通りしていた。
幾度か、行ってみようかという話になったことはあったが、結局は行かなかった。
失って初めて、などと言い訳するような歳でもない。失うとわかっていて、日々選択していく。そうやって、ここ数年を過ごしていたから特に、この失われていく一つの世界の物語に、深く感情移入してしまったのかもしれない。

ここ最近特に実感することは、これまで人々を支えてきたカルチャーや価値観というものは、いとも簡単に覆されるということ。過去の成功体験は瞬く間に通用しなくなり、価値観の是正を求められ、アップデート出来なければ時代に取り残された無能と馬鹿にされてしまう。人々が生きてきたリアルな営みは切り捨てられ、時には過ちだったというレッテルを張られたりもする。淘汰されていくものへの憐憫ではなく、私は失ってしまった感性を思い、時々途方にくれてしまう。無情に塗り替えられいく「時代」というものはいつも平等に残酷なものだ。
この映画はそういった観点からも訴えかけてくるテーマを深く刻んでおり、失われていくものを映像に残したいという映画製作に至る動機そのものが、残酷に流れる時間に抗いたい人間の、哀しく切実な欲望を体現しているように思う。

◆確かに存在した輝かしい日々の愛と夢

そんな哀しさや虚しさと地続きであるはずの過去の物語が、いつのまにか「現在」に駆け上ってきて、確かに存在した輝く日々の軌跡を見せてくれるのが、「彼女が夢で踊る」の世界だ。
そこにあるのは、狂おしいほど純粋な、信太朗とサラの、永遠の愛の物語である。

印象的なのは、サラへのまっすぐな愛情を隠さない信太朗の根源的な問いだ。何故自分がこんなにもストリップに魅了され、救われるのか。
一方でサラも問い続ける。自分を肯定する事が出来ない。自分を愛せるのはステージにいる時だけ。どんなに頑張っても、うまく生きられない。どうして。

どちらも、自分の存在そのものへの問い。

この映画の中で繰り返される「存在意義」への問いが、決して確信を掴む事の出来ない愚かさを漂わせながら切なく胸を突いてくる。

信太朗の中ではエロスと神性が矛盾なく共存しているのではないかと思う。信太郎の中で何かが壊れたあの時、サラが壊したあの時、信太郎はストリップの世界の夢に攫われてしまったのではないだろうか。

信太朗にとっては至極まっとうなことなのだけれど、その感覚は、サラには酷なことだったろうとも思う。

信太郎がサラに抱く感情は純粋すぎるがゆえに逃げ場がない。サラが初めて信太郎に縋ったあの夜、サラから重ねられる唇を受け止める信太朗に生々しい欲情は感じられない。そして信太郎は、夜が朝日に侵食されていく薄い闇の中で、美しく舞う女神を抱く。ただただ美しい時間が信太朗にとっては現実で、サラにとっては非現実的であったろうなと感じる。二人は同じ夢の中にいるはずなのに。

サラが去っていく時、その小さな背中に向かって、信太朗は「待ってるよ。」と言った。待っている間は彼女の事を愛していられたんだろうか。永遠を感じていられたんだろうか。映画冒頭の若き信太朗が、失恋の痛みから幻覚を見ているエピソードは信太朗の特異性を告知してはいるのだが、劇場の閉鎖が決まってから信太朗の前に現れるメロディが、信太朗が見ているサラの幻だと知って、信太朗の純粋性がとてつもないほど深く、どれほど深い孤独を抱えて来たのかを理解した瞬間に、とめどなく涙があふれてくる。信太郎は本当に、ずっと待っていたのだ。そしていつまでも待っていたかったのだ。信太郎にとって、サラはストリップそのものであり、夢であり、愛そのものであるのだから。

サラには信太朗を受け止めることが出来なかったろうと思う。彼に、一緒に落ちてとは言えないから。それに、彼の中にいる美しい自分を見て、失望されたくないとも思っただろう。
サラが送ったその後の人生の中で、信太朗はきっとサラの宝物であり続けただろう思う。美しいままの恋を、サラはずっと抱きしめていたように思う。あの壁に咲いているキスマークのように。

スポットライトを浴びて観客を魅了し、高みに上り詰める刹那。サラが何も恐れずに済む場所は、サラが自分自身を信じられるのは、その刹那だけだったんだろうな。その刹那が、信太郎にとっては永遠だったのかなと思う。

◆愛しい痛み。

「エロスの先にあるもの」とは、舞台挨拶で信太朗の青年期を見事に演じきった犬飼貴丈さんの言葉である。
そして、彼も、主演を務めた加藤雅也さんも、監督の時川さんも、この映画は美しい作品であると言った。

私もその通りだと思う。この映画を観る度に、この世界の美しさと、そこに内在する痛みが胸にあふれて、子供のように泣いてしまう。自分の中にある美しいものが真っすぐに涙に還元されて、深い共感に沈み、愛おしい痛みを抱きしめたい気持ちになる。胸に突き刺さった鋭いナイフ。
その痛みさえ失いたくないと思う永遠を、きっと大人になってしまった私は知っている。

ひとつの滅びゆく世界にあって、信太朗とサラが刻んだかけがえのない永遠は、この映画を観た者の胸にあたたかく輝いて、愛しく、きっとその人にとっての大切なものを教えてくれる。

私はこの映画が本当に好き。出会えてよかった。この素晴らしい映画を多くの人々に観て欲しいと心から思う。

犬飼さんが語った、エロスの先にあるもの。
あえて言うならば、それは神性に帰結するのだろうと思う。祈り。人々が、懸命に生きようともがく、意志そのものなのではないだろうか。


≪公式サイト≫

≪オンラインショップ≫


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?