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自己紹介が遅れました!の2


前回は1988年〜2015年までをお話しました。
ほぼ、あるあるでしたね。(無いよ)

どうも
群馬県前橋市出身高崎市在住の音楽家で
作曲チーム"GMEis"代表の優ちゃん
こと
ルーズ・リーフ市川です。
(覚えられん)






さて、昨日の続きを書く前にいくつか補足を。
2010年〜2015年ラジオ高崎に勤めていた期間は
ほとんどライブなどはしていなかったのですが
めちゃくちゃたまーに駅で歌ったりしてました。

その時に出会ったのが
高崎市を中心に音楽活動をする団体
Water Musicの方々。

当時で10組くらいはいたのでしょうか。
私もたまにライブをご一緒させてもらいましたが
みんな超怖かったです。ワタルさんとか。
金髪でなんかライオンみたいだったし
何より名前が強い。(初代ポケモン四天王ね)

これは嬉しいけどね



にしても

「ワテら〜、高崎の音楽シーン牛耳ってますねん」

顔の奴ばっかりで。(西すぎる)
なんか普通に嫌でしたね。笑
都内専門卒にはわからない
地元大学ノリなんでしょうね。(謎マウントすぎる)

そんな中でも唯一アオバ本島ヒデオだけは
私を面白がってくれ、干渉せず、
側だけをなぞってくれる優しい先輩たちでした。

私の好きなエンタメも理解してくれていて、
営業妨害もせず、距離の取り方が抜群に上手かった。

やっぱ、お前ら詐欺師に向いてるよ!
(これくらい言うと笑ってくれます)

チキチーパイセンことアオバ
もっくん(極小)と佐藤としひこ(右)


そして、その本島ヒデオとの繋がりから
藤澤千春と出会ったのが2010年?でしょうか。
彼女のワンマンライブで
『君を探している』という楽曲を
フルコーラス歌わせてもらうことになるのだけれど
頼まれたのがワンマンの1週間前でね。

こういうのって
だいたいワンコーラスだけとか
2コーラス目だけとかじゃない?
フルは1ヶ月前じゃない?

当時21歳の私はバイトを休み、寒空の下、
死に物狂いで覚えましたよ。(家入れよ)

大事なワンマンライブの不安要素にならぬよう
当日も「いや全然余裕っす」みたいな顔で歌いました。
いや〜大きなミスもなくよかった〜。

そしてその後も、ちはるお姉さまからは

「市川くん!まち映画の主題歌に決まったのだけれど、作道さんにアレンジお願いできないかな?」

上映の1ヶ月前に言われたりします。
納期が1ヶ月じゃなくて
上映が1ヶ月後に控えてる!?
彼女への伝家の宝刀"もっと早く言えよ"は健在です。

先日FMぐんまでも公言していたように
今年はアルバム制作を頑張るとのことで、
またいつ連絡が来てもいいように
我が作曲チームGMEis
背もたれにつかず、腰を浮かせて待機しております。

何だかんだで早15年の付き合い。

私が下仁田の放送局で働いてる時は
番組アシスタントをしてもらったり
私が体調をくずした時に
代わりに出てもらったり
助けてもらいました。
ETCのバーを破壊してまで
駆け付けてくれたこともあったね。(マジ)
結婚パーティーも台風の中、来てくれたり
音楽フェスで使うライティングも貸してくれたり
我が家の引っ越しのお手伝いを夫婦で来てくれたりと
頭が上がりません。







ちゃんとした写真が一枚も無い藤澤千春


いや、ちょっと頭が高ぇかなぁ!!!

数少ない市川ファンの皆様からも
チーノちゃんの愛称で親しまれる彼女の楽曲が
多くの人の心へ届いていくことを信じています。











ふう。
で、ここからが本編なのですが、、、。(白目)

手短にしますね。

■2015年3月 ラジオ高崎退職
音楽活動だけで飯が食えるよう

すたっふと日々動き回ってました。

カレーキッチンるぅ〜も早々に辞めて、
甘楽町のすたっふのスタジオで
朝まで作曲とレコーディングを繰り返す日々。
右も左もわからないとはこのことで、
草を掻き分け名前も無い道を二人で作り
とにかく立ち止まらずに進んで行きました。

でもこれ甘楽じゃないね



売れてる人たちの例え話で
よく山登りが出てくるけど
そもそもその山にすら到着しないのよ。暗中模索。
気持ちは一丁前なのに
地図も知識も灯りも無くて
現在地も良くわからない。
答え合わせもできない。

DAWもわからなければ
レコーディングの方法も
CDのジャケの作り方も
なーんにもわかりませんでした。

一つ一つ調べていって、、、

どうやらレコーディングには
マイクだけじゃなくて
インターフェースが必要らしいぞ!!!

とか

ジャケのサイズは120×120らしいぞ!!!

とか

歌詞カードのフォントサイズは
6pt〜9ptくらいがいいらしいぞ!!!


とか

マジでそんなことから始まりました。
アーティストになる前に裏方の勉強から。

本当に本当に毎日が怖かったし、
本当に本当に毎日が刺激的だった。

死ぬほど時間を使って
無駄な事もたくさんしたのだけれど
音楽をやるために必要な知識を得た期間は
貴重でかけがえのないものでしたね。

青春っちゃ青春だもんなぁ。
しかも独学だから本当に時間がかかった。

今でも鮮明に残るその記憶があることで
大体のことは乗り越えられる気がします。

すたっふに事業用に数百万借金させてしまって
将来が不安すぎて毎日体が震えたけど
(精神的に追い詰められると人は本当に震えるよ)
ハンドメイドでどうしてもやりたかった。

今なら仕事を辞めた決断も
悪くはなかったと頷けますが。
当時は、金銭面に関してだけ後悔はあった。
あのまま普通に働き続けていれば
生涯で2億弱くらいは稼げてたもんね。
それを自ら放り投げたわけだから。

それでも母は応援してくれてました。

当時au使ってたんだね


間違いなく甘楽にいたあの期間が
今の私を作ってきました。
そして、今この仕上がりです。

LINEスタンプ買ってください







そんな中、何とか形になり(いくないくな)

4月25日にリリースしたのが
1st mini Album『Contrail』
で、歌詞カードは封入せず。
(フォントサイズのくだり要らんやん)

よく作ったもんだ



帯だったかフライヤーに
"代表曲「IF...」やリード曲「飛行機雲」を含む"
みたいな文言を載せようかと話して
「いやどっちも誰も知らねー!」って
すたっふと笑ってました。

コーヒー飲みながら
ちょっと笑えることがあるだけで
また音楽に力を注げられたんです。

『部屋とワイシャツと〇〇』大喜利とかしてました。

楽しかったな〜。
色んなものを出しまくって
部屋とかワイシャツとかも変えたりしたけど

結果、

『部屋とワイシャツとあーたとデビィ♪』

が一番良かった。

字余りからの裏拍のデビィ。(これも音楽)
この場合の「あーた」は平松愛理さんでしょうね。

無理くり自分を入れ込むデビィ。
今でも思い出して歌って元気でます。






お前誰やねん







話はアルバムに戻り
言うてもすぐ売れるだろうと500枚プレスして
最初の1枚が売れるまで
1ヶ月近くかかったのを覚えてます。

高崎駅の西口自由通路で
路上ライブをしていた時に
カラサワさんというおじさんが
購入してくださいました。

めっちゃ嬉しかったな〜。
きっと一生忘れないだろうな。
マジのゼロイチが売れた瞬間。
いただいた1000円札の価値が
何十倍にも感じました。
何十時間もかけて作ったんだもんな。
時給いくらなんだろうか。。。

それ以来、姿は見なかったけれど
まだ聴いてくれているのかなー。








そのくらいの時にすたっふから
「路上ライブも俺らのスタイルを作ろう」
と提案があり、
ホワイトボードやらブラックボードやらを駆使したり、
当時、群馬の路上シーンでは珍しかった
QRコードの入ったフライヤーを掲げて歌ってました。

イチカワユウキの頃だ!


駅で歌っているとラジオ局のスタジオも近いので
かつての仲間が聴きに来てくれたり。

これは高崎駅東口


そして、保育士のアスカ(派遣会社)
市川を見てスポンサーを始めたのです。

当時、このボードを置いてた全ミュージシャン!
私に感謝しなさい!!!!(ギャラの10%ください)

と、そうこうしているうちに
生まれたのが「レモネード」でした。
(これはカラオケにも入ってたからなんか聴いたことあるぞ)

玉木聖愛(現アルトナイト)に楽曲提供


そして何を隠そうこのレモネードが
これから市川を色んな場所へと連れて行ってくれるのですね〜。

制作過程はこちらからどうぞ。
有料ですが。


じゃーん。

初ホールワンマン


じゃじゃーん。

浅草でも歌う


じやあーん。

東京タワーでも歌う


とまぁ、今日はこんなところで。

自己紹介が続けば続くほどキツイのですが
まだ続きます。続ネード。







手短って何かね!!!



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