1.突然の宣言
「俺、歯医者に行こうかな」
あの時の私はどんな顔をしていただろう。
過剰な驚きや喜びなどで彼の決意を無駄に刺激しないよう、敢えて薄めのリアクションにし、それでも、また同じくその決意を応援する気持ちであることを表に出しながら、淡白に「うん」と答えた気がする。
普通の夫婦であれば別段大したことのない夫の発言も、当時の私にとっては長年追い求めていた幻の獲物が突然目の前に現れたような、またとない千載一遇のチャンスに感じられた。
これを逃してはいけない。次はまた何年後か分からないのだ。
夫を歯医者に行かせるーこんな簡単なミッションに10年を費やした。
小言を言ってみたり、何気なくテレビに映る人の歯の話をしたり、直接脅すような言い方をしたこともある。私が先に歯医者に通い、その話をしたりもした。もし筋肉マッチョになって歯が綺麗だったら絶対もてるよ、と下心を唆してみたりもした。そのどれも効果がなかった。
それが突然、何もしていないときに突然、チャンスがやってきたのだ。夫から「歯医者に行く」と言い出したのである。お盆過ぎの夏休み、布団でゴロゴロしていた朝だった。夫は足だけ布団に突っ込んで座った状態で、急に宣言した。
夫に一体何があったのかは分からないが、まだそれを聞く段階ではない。まずは、先に進めなければ。彼の決意の芽を手折らないよう、慎重に慎重に。
(続く)