5. 5歳のおじさん
夫の勇者レベルが上がった翌日、朝の支度をしていると洗面所から
夫の声が聞こえた。
「え、あれ。血が出ない」
ん? 覗きに行くと、夫は何度もうがいをしている。
どうやら歯磨きをした後に、血が出なかったようだ。
「出血して」驚くのではなく、「出血しない」ことに驚いている。
恐ろしい。
夫からすると歯磨きをした後に血が出るのが常だったようだ。
私は以前そのことに気がついて歯医者に行くように促してきた。
が、ずっと続いていたなんて。
「普通、歯磨きして血は出ないよ」
あなたの口腔内は異常事態なんだから、すぐに医者にかかって欲しい。
そう伝えてきたが、血が出なくなってようやくその異常さを理解できたようだ。
これまでの数年、1日2回の歯磨きで計1万回近く血を流してきたわけだ。
いやいや、普通じゃないでしょ。
いやもうそれが普通になっちゃうのか。
私からしたら不思議でしかたなかったが、頑なに歯医者に行かないくせに
夫は口臭やら歯磨きは非常に丁寧に気を遣っていた。
歯医者に行きたくないがための必死の抵抗のつもりかもしれないが、
本末転倒甚だしいし、その姿が滑稽に感じていた。
だけどそのギリギリの抵抗も分からなくもない。
どうにか許されるのなら、このままやり切れるのならば
毎日歯磨き頑張るから、見逃して、神様。と言った具合か。
でも担当の歯科医師は、そんな彼の望みも気持ちよく砕いてくれる切れ味があったらしく
「まあまあ酷いですね」と、よくもここまで放っておいたね、これでなんとかギリギリ最後の救いになるかもね、と、すっぱりと嫌味なく、素直に言い放ったそうだ。
「めっちゃキレイに磨けた」
そう言って思いっきり「い」の口をして、歯磨き後の歯を見せてくる。
夫が私に歯を見せてくれたのは結婚して初めてのことだった。
まだまだ虫歯だらけでコンプレックスであろうにもかかわらず、だ。
私5歳の子供いたっけ?と思わず確認した。
黒い歯石と一緒に、彼の心に巣食った幾重もの硬い殻も剥がれたのかもしれない。
目の前にいるのは、なんとも無垢で素直なアラフォーおじさんだった。
(続く)