アフター・サマー
あの日の俺の選択は正しかったのか。今でも時々、不安になるときがある。
「おい」
メンバーの藤に呼ばれて振り返ると、俺以外の全員が準備を終えていた。練習開始の時間はとっくに過ぎている。俺は慌ててギターを持ち、弦の調整に取り掛かった。
「やるぞ」
音合わせが終わるか終わらないうちに、藤の一言で曲が始まった。みんなピリピリしている。次の曲が勝負だと、プロデューサーから言われているのだ。
俺たちのバンド、ドッグドッグドッグはメジャーデビューして2年、まだヒット曲を出していない。デビュー曲はそこそこ売れたが、2曲目、3曲目の売り上げはイマイチ。ファーストアルバムの話も立ち消えていた。次で当てなければ事務所からの契約解除も考えられる。結構ヤバい状況なのだ。
「お前ら、やる気あんのか」
藤のイラついた声で曲が止まった。部屋がしんと静まり返る。誰も何も話さない。俺はいたたまれなくなって下を向いた。最近こういうことはよくある。
「武道館行きたくないのかよ」
藤の吐き捨てるようなセリフが沈黙を破った。心臓がドクンと脈打ち、頭にカーっと血が上る。俺は強く拳を握った。
「行きたくないわけないだろ」
声を荒げたのは、ドラムの悟だった。勢いよく立ったせいで椅子がひっくり返っている。悟は身体を震わせていた。
「悟さん」
悟の隣にいた俊が慌てて止めに入った。細身の俊と筋肉隆々の悟では体格的に俊の方が不利だ。しかし俊は腕に必死にしがみついて、今にも殴りかかりそうな悟を必死に止めていた。俺は拳を握ったまま突っ立てそれを見ていた。
「俺、前みたいなこと嫌ですよ!」
俊が叫んだ。悟が動きを止め、藤が目を大きく見開いた。前みたいなこと、というのが何を指しているのか全員が分かっていた。再び沈黙が落ちた。
「俺だって、嫌だよ。何のために」
悟は言いかけた言葉を飲み込んだ。
「…すまん」
悟が気遣わし気に俺を見た。俊が心配そうに悟と俺を交互に見ている。
「いいよ。気にするな」
俺は悟と視線を合わせないまま、ゆるく首を振った。悟がわざと言ったのではないと分かっていた。
「…タバコ吸ってくる」
そう言って藤が部屋を出ていくと、残りの二人も順に部屋を出て行った。部屋には俺だけが取り残された。
階段を上り、屋上に続く扉を開ける。そこにはすでに先客がいた。
「藤」
少しためらってから声を掛けると、藤は缶を片手に振り返った。
「今は屋上でタバコ吸えねぇから」
藤は手すりにもたれかかったまま、ばつが悪そうに言うと足元にあったコンビニの袋から何かを取り出した。缶ビールだ。
「お前も飲めよ」
差し出された缶の表面には細かい粒がたくさん出来ていて、触るとヒヤッとした。
「サンキュ」
「発泡酒じゃなくてビールだかんな。ありがたく飲め」
「俺は味わからんからなぁ」
「じゃあ返せ」
「ありがたく頂きます」
慌てて蓋を開けると、プシュッ、と勢いよく音がした。夕方のぬるい空気に少しだけ穴を開けるような、気持ちの良い音だ。何も終わっていないのに、何か終わったような気持ちにさせる。俺は藤の横に並んで立った。
「乾杯」
何に対しての乾杯かは分からなかったが、俺はなんとなくそう言って自分の缶ビールを藤の方に傾けた。もう顔が赤くなっていた藤は缶ビールを持った手を軽く上げた。
俺は缶を少し傾けて一口目を飲んだ。冷たい液体が口から喉へと流れ込み、火照った身体を冷やしていく。口の中には特有の苦味だけが残った。
「お前、遠慮してるだろ」
藤は手すりから下を眺めていた。藤の言葉はいつも的確で鋭い。相手の痛いところを容赦なく突いてくる。
「さっきも俺たちが言い合うのをただ見てた。俺たちと深く関わるのを避けてる。もう、2年も経つんだぞ。お前がそんなんじゃ、いいバンドにはなれねぇ」
俺は口の中の苦みが増してくるのを感じた。
「…ごめん」
藤の言葉は正しく、謝るしかなかった。
俺と他のメンバーとの間には確かに、壁がある。それは新参者としての疎外感以上に、宏さんへの遠慮と罪悪感から作られたものだった。罪悪感なんてカッコいい言葉を使っているが、所詮は自分勝手な言い訳に過ぎない。
俺たちはしばらく無言でビールを飲んでいた。
「なあ、クマ」
「おう」
「俺たち、間違ってないよな」
藤は相変わらず下を眺めていた。確かめるように紡がれた疑問は、肯定されることを望んでいる。俺ではなく俺たちなのは、やっぱり、藤も宏さんのことを気にしているからだろう。俺は上手い言葉が見つからずビールをもう一口飲んだ。
「武道館に行きたい。もっとビッグになりたい。そのためには辛いことも選択しなきゃならない。仲間を切り捨てることも、夢を叶えるためならしょうがない。そう信じてきた。でも、今になって思うんだ。俺たちは正しかったのか、って」
藤は手すりに額を押し当てていた。もしかしたら、泣いているのかもしれない。俺はうなだれる藤の姿を直視できず、前を向いた。
「お前にこんなこと言うの間違ってると思う。でも俺、本当は宏に辞めてほしくなかった。ずっと一緒にやってきた仲間だったんだ。一緒にメジャーデビューしたかったよ」
藤の声は震えていた。俺は何も言うことができなかった。ただ、赤く染まっていく空を見ていた。
「でも、ダメだった。宏は、選べなかったんだ」
メジャーデビュー出来る奴と出来ない奴の違いは、才能だけじゃない。自分の夢を実現させるための選択が出来るかどうか、つまり、腹の底から夢を実現させたいと思っているかどうかだ。それが出来ない奴は遅かれ早かれ、この世界から消えていく。俺が前にいたバンドのように。
「お前は正しかったよ」
「…」
「俺も、正しかった。そう思うしかないんじゃないか」
今はまだ坂道を上っている途中だ。あのときのことが正しいかどうかなんて決めるのは、まだ先でいい。俺は藤ではなく自分自身に言い聞かせるように言った。
缶はすでに軽くなっていた。残りのビールを飲み干す。ぬるくなったビールは、苦いだけでおいしくない。それでも俺は残らず飲んだ。
「うまいな」
「うそつけ。味わからねぇクセに」
「まあな。でも前より好きだ」
「クマ。俺、お前を誘ったこと後悔してない。俺たちにはお前が必要だった」
「おう。俺も後悔してない。でも、ただ、ときどき不安になる。それだけだ」
そう、不安になるだけなんだ。失ったものが大きすぎて、無性に懐かしくなる。それはどうしようもないことだ。
「武道館、行こうぜ。絶対」
「おう」
俺たちは空になった缶で乾杯した。あの日、決断した自分たちに対して。
*写真はPAKUTASOのカズキヒロさんよりお借りしました。