教室
白井美波の席は、教室の一番後ろだった。
その席を美波はとても気に入っている。
美波の通う高校からは海が見える。
学校には立て直したばかりの校舎と、今年の夏休みに立て直す予定の校舎が二つ建っていて、美波たち一年生は古い校舎を使っていた。
他の同級生たちとは違い、そこらじゅうにガタがきた、ヒビや傷だらけの校舎を美波は結構気に入っている。
年季の入った壁や床からは長い歴史が感じられ、今までこの教室を使っていた生徒の息遣いのようなものが聞こえてくる気さえした。
美波の席からは、担任である浜田なつめの姿がよく見える。
浜田は美波のクラスの担任であり、一年生の数学を担当する男性教師だ。
中背中肉で、いつもボソボソと話す浜田のことを、冴えない奴だと生徒たちは裏で笑っていた。
話す時いつも下を向く浜田は、ホームルームのときだけ必ず一度、視線を上げて教室をぐるりと見回す。
美波にとって、それは一日でもっとも緊張する時間だ。
視線が合うことを期待して、美波は浜田から目をそらさなかった。
しかし、この半年間、一度として視線が交わったことはない。
美波は落胆したが、諦めなかった。
美波は自分の趣味が変わっていると知っていた。
そう強く意識したのは、クラスの女友達が瀬戸洋に熱を上げている姿を見たときだ。
瀬戸は美波と同じクラスの男子生徒で、整った容姿と明るい性格をしている。
男女問わず人気があり、高校入学初日から2年生の女生徒数人が瀬戸に会いに来ていた。
その様子を美波は冷めた目で見ていた。
ー瀬戸君のどこが良いのかな。浜田先生の方がずっと素敵なのに。
美波はそう思っていることを、周りに話したことはなかった。
女友達には理解されないどころか、信じてさえもらえないだろう。
彼女たちの言う「イケメン」は、美波の胸を熱くしなかった。
*
「先生」
授業後、呼び止められて振り返ると瀬戸洋がいた。
浜田なつめは心の中で舌打ちした。
なつめは瀬戸が好きではない。
爽やかだと形容される容姿も、誰とでも分け隔てなく話す性格も、全てが癪に障った。
とりわけ瀬戸の屈託のない笑顔は、なつめをいつも惨めにさせた。
「これ、今日が提出予定の課題です」
各教科に割り振られた係は、生徒の任意で決められる。
瀬戸は二人いる数学係のうちの一人で、もう一人は白井美波という女生徒だ。
教科係に瀬戸が手を挙げる様子を、なつめは苦々しい気持ちで見つめていた。
「ああ。ご苦労様」
なつめは瀬戸と目を合せないよう、足早に教壇を降りた。
教室を出て行く間際、瀬戸を呼ぶ男子生徒たちの声が聞こえた。
なつめは瀬戸が羨ましかった。
瀬戸のような容姿を持っていたら、性格だったら、人生はどれほど明るかっただろう。
友達も、恋人も、仕事も、全てを手に入れることができたに違いない。
少なくとも、今の自分のような人生を送ることはなかっただろう。
なつめは人と話すことが苦手だった。
それが原因で大学院時代の教授と上手くいかず、退学したことがある。
両親の勧めで教員免許を取得していたため、教師の職にありつくことができたが、なつめはこの仕事が好きではなかった。
特に苦痛だったのは、ホームルームの時間だ。
人前で話すというのは、一対一で話すよりもかなりの力を要する。
なつめは下を向いて話す自分の癖を、対人関係が苦手な自分には必要なものだと固く信じていた。
ホームルームの終わりだけは顔を上げ教室中を見渡したが、それは単なるフリで誰とも目を合せないようにしていた。
なつめは今年で35歳になる。
そろそろ結婚を考える年齢だが、その相手はいない。
結婚相談所に入会したのは先月だ。
「浜田様はしっかりしたご職業に就かれていますし、持病もない。
すぐに素敵な女性と巡り会うことができますよ」
結婚相談所の担当者は、なつめより随分年上の女だった。
女は笑顔を崩さないまま丁寧な物腰で将来の伴侶候補を紹介したが、どの候補者もなつめの心には響かなかった。
なつめには白井美波のような美人と結婚したい、という密かな夢があった。あんなにきれいな女性を毎日近くで見ることができたら、どんなに幸せだろう。
しかし、それは叶わぬ夢だと35年の人生の中で悟っていた。
ーああいった美人は、瀬戸のような容姿の良い男を選ぶ。
おまけにあいつは人当りが良いから、会社でも順調に出世するに違いない。そうなったら、ますます女が、放っておかないだろう。
俺とは全く別の人生だ。
浜田は出席簿に載った瀬戸の名前をいまいましく見つめた。
*
瀬戸洋はこの学校が気に入っていた。
近くにコンビニが無い不便さも、潮風で制服のシャツがべた付くことも、旧校舎の冷房の効きが悪いことも、洋にとってはあまり気にすることではなかった。
しかし、最初からそうだったわけではない。
洋はもともと別の高校を志望していたが、姉の強い勧めでこの高校に入学を決めた。
洋の一つ年上の姉は水泳部のエースで、弟も同じ水泳部に入り活躍することを望んでいた。
流されるように入学した学校を、洋は当初あまり好きになれなかった。
水泳部も楽しかったが、サッカーやバスケなど陸で運動をする部活をやってみたかった。
洋の気持ちが変わったのは、ゴールデンウィークが明けた頃だ。
その頃、洋は隣の席の白井美波が担任の浜田をずっと見ていることに気付いた。
特にホームルームのときの彼女は、一度も瞬きしないように緊張している様子だった。
白井が担任の浜田に好意を寄せていることは、明らかだった。
浜田のどこが良いのか、洋には分からない。
しかし、浜田を選んだ白井に洋は好感を持った。
「瀬戸、お前、好きな人いないの?」
昼休み、同じクラスで仲の良い木村がパンをかじりながら洋に訊ねた。
木村は最近、隣のクラスの女子と付き合い始めたばかりだ。
浮かれる木村の相手をするは、正直、面倒だった。
「いないよ」
洋は自分が女子に人気があることを知っていた。
何度か付き合ったこともある。
しかし、どれも長続きしなかった。
洋は、自分のことを好きだという女子を信用できなかった。
彼女たちは自分を好きなのではなく、自分の隣にいる彼女たち自身を愛しているのだと、直感的に感じていた。
「白井さん、二年の田端先輩に告白されたらしいぞ」
洋はその噂を知っていたが、大して気に留めていなかった。
白井がその告白を受けるとは、思えなかったからだ。
「結果は、まあ、残念なものだったらしい」
木村が神妙そうな面持ちで頷いた。
洋はやっぱりな、と心の中で頷いた。
「言っちゃ悪いけど、田端先輩じゃ白井さんに釣り合わないよな」
「そうかな」
「そうに決まってる」
木村はそう言って、男女の恋愛におけるバランスについて、自分の見解を語り始めた。
洋は適当に相槌を打ちながら、友達と弁当を食べている白井を見た。
今日の帰りのホームルームも、彼女は浜田を見つめるのだろうか。
「結局、美人はお前みたいな男を選ぶんだよなあ」
木村が大げさにため息を吐いた。
洋は辟易した。
残念がっているふりをして、実は余裕だと顔に書いてある。
洋は窓の外を見た。
海が太陽に照らされて、青く輝いている。
午後からも熱くなりそうだ。
「…俺たちは、交わらない」
白井美波は自分を選ばない。
浜田なつめも、きっと彼女を選ばない。
(終)
いいなと思ったら応援しよう!
