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サラダは料理ですか?

時刻は17時。外はまだ昼間の暑さを残したままだ。
私は仕事用のリュックサックを背負い、空いた両手で買い物袋を持ちながらアパートの古びた階段を上り切りった。額から汗が流れて首筋を濡らしたが、両手がふさがっているのでどうしようもない。部屋の前までたどり着いたときには、汗の筋は3本になっていた。
私の部屋、と言っても二人暮らしだから正確には私たちの部屋なのだが、は築30年のアパートの2階、一番端にある。アパートは駅からもスーパーからも遠いけれど、1LDKでそこそこ広く大人2人が住むには十分な大きさだ。
玄関を開けると、外に負けず劣らず蒸し暑い空気が充満していた。思わず眉をひそめたが、それ以上に私の神経を逆なでするものが目に入った。テーブルに置かれたままの食器と、蝉の抜け殻みたいになっている脱いだままのスウェットパンツだ。それらは家を出るときには間違いなく無かったものであり、私が出た後に家に人がいたのを(そうするつもりはないのだろうが)主張していた。
私の同居人、通称ほーちゃんは私の恋人である。本名が誉(ほまれ)だからほーちゃん。安易なニックネームだが、付き合う前から周りにそう呼ばれていたのだから仕方ない。
ほーちゃんとはアルバイト先で出会った。昼は定食屋、夜は居酒屋という店でほぼ同じ時期に働き始めた私たちは、同い年で上京したてという共通点もありすぐに仲良くなった。その後はとんとん拍子で付き合うことになったけれど、同棲を始めたのは3ヶ月前からだ。
同棲初日に決めたルールは、家事の分担。毎日、当番を決めて掃除・洗濯・料理を回していき、買い物や皿洗い、ゴミ出しなどは2人のうち気付いた方がやる。
でも、このルールが守られたのは最初の1週間だけだった。夜シフトが多いほーちゃんは朝遅くまで寝ていることが多く、自然、私が出勤する前に洗濯と簡単な掃除を済ませるという流れができてしまった。結局、今はほとんど私が家事を担当している。「ほとんど」というのは、ゴミ出しだけはなぜか毎回ほーちゃんがしているからだ。
地元の友達に言うと必ず「なんで別れないの」と批判され、「よく一緒に住めるね」と呆れられる。それには深い理由があるわけじゃない。単純に2人で住めばその分、家賃が浮くからだ。東京の家賃はとんでもなく高い。アルバイトで生活費を稼ぐ二十歳そこそこの小娘には、とてもじゃないが毎月払える額じゃないのだ。
もちろん、ほーちゃんを好きという気持ちはある。いや、あった。正直に言うと、最近ではそうした感情は薄れつつある。愛情よりも生活が大事。
私は買い物袋から戦利品を取り出すと、それらを適当に冷蔵庫に突っ込みベッドに倒れこんだ。つけたばかりのエアコンはものすごい音を立てながら、冷たい風を一生懸命に送り出そうとしている。その努力には涙さえ誘われるが、備え付けの古いエアコンでは、この暑さを打ち消すほどの冷気を作り出すのに、ゆうに10分はかかるだろう。
私はベッドにうつ伏せになったまま、左足を伸ばし扇風機のスイッチを入れた。扇風機はこの夏買ったばかりの新品で、エアコンとは違い大きな音を立てたりはしない。しかし、いかんせん室内の空気が生ぬるいので、それをかき回したところで火照った身体を冷やすには至らないのだ。結局、私はしばらく暑さを我慢するしかなかった。まとわりつくような暑さは、しかし、突然襲ってきた睡魔に打ち消された。目が覚めたとき、枕元のデジタル時計は21:00を表示していた。
「まずい」
あと30分もしないうちに、ほーちゃんが帰ってくる。夕飯用に買ってきた豚肉はまだ冷蔵庫に入ったままだし、それ以前に米も研いでいない。私は慌てて起き上がり、汗まみれの仕事着を脱ぎ捨てて色あせたTシャツと短パンに着替えた。
頭の中で、何から先に処理していくかをめまぐるしく考える。まず、ご飯を炊いて、次に付け合わせのキャベツをスライサーで千切りにし、生姜焼き用の豚肉を焼く。生姜焼きのタレは豚肉を焼いているうちに作ろう。
私は手早く炊飯器をセットすると、キャベツを取り出すため冷蔵庫を開けた。
「なんで」
冷蔵庫にはキャベツが入っていなかった。そういえば、スーパーで半玉のキャベツを見たとき少し高いなと思い、カゴに入れたのを取り出したのだった。痛恨のミスである。キャベツの千切りがない生姜焼きなんて、生姜焼きじゃない。こうなったら作戦変更だ。
しかし、冷蔵庫の中をくまなく探しても、メインになりそうな食材はなかった。肉か魚がないと食べ盛りの若い男性は満足しないだろう。私だけだったら卵ご飯で済ますところだけれど。
そこまで考えて、はっとした。そうだ、どうしてほーちゃんに気を遣わなければならないのだろう。夕飯の支度をするのは私である。何を用意するのかは私の自由だ。そう思ったら急に肩の力が抜けた。

帰宅したほーちゃんは、眼鏡の形に放り出されたスウェットパンツに履きかえ、上は数年前のフェスTシャツという出で立ちで食卓についた。疲れた顔をして身動き一つせず、食事が運ばれてくるのを待つ姿はまるで老犬のようだ。
そんなほーちゃんを横目に、私は手際よくサラダと炊きたてのご飯をテーブルに並べていった。サラダは冷蔵庫に残っていたレタスを適当にちぎり、缶詰のコーンをふりかけただけの簡単なものだ。
ほーちゃんはどんな顔をするのだろうか。内心ドキドキしながら、その表情を見守る。
「いただきます」
ほーちゃんは表情ひとつ変えず和風ドレッシングに手を伸ばすと、それをドボドボとサラダにかけ、無言で食べ始めた。
「…いただきます」
いつもと変わらない様子のほーちゃんに、拍子抜けする。でも、それを顔に出すのは癪に障るので、私はできるだけ気にしていない風を装ってサラダに箸を伸ばした。
つけっ放しにしていたテレビから、バラエティ番組の賑やかな声が流れてくる。時折、食器同士が触れる小さな音が、2人のあいだの沈黙を一層際立たせた。
ほーちゃんは食事中、滅多に喋らない。こちらからどうかと聞けば「うん。おいしい」と必ず返ってくるが、それだけだ。まるで、決まった言葉しか喋らない人形を相手にしているようだった。
しびれを切らした私は、自分から話を切り出すことにした。
「今日、サラダだけなんだけど」
「うん。そうだね」
淡々と受け答えをするほーちゃんに、自分の方がおかしいのではないかと不安になる。
「夕飯にサラダだけって、普通じゃないよね」
ほーちゃんは言葉の意味が分からないといったように、小さく首を傾げた。
「そうかな」
「そうだよ。だって、サラダだよ?料理じゃないし」
「いや、料理だろ」
予想外の答えに私は戸惑った。夕飯がサラダだけであることに文句を言われなかったのは喜ばしい。でも、サラダが料理であると言い切るほーちゃんへの驚きが、その喜びを数段上回っていた。
「野菜をちぎって盛っただけだから、料理じゃないよ。料理未満」
「食材に手を加えているなら料理でしょ」
「じゃあ、卵かけご飯は?卵を割るから料理?」
「それは料理じゃない。自分で卵を割るから」
つまり、他人が食材に手を加えたら料理になるということか。だったら、私が卵を割ってご飯と一緒にほーちゃんに出したら、立派な料理になるのだろうか。
「ほーちゃんの理屈は良く分からないよ」
ほーちゃんはムッとした表情で箸をおいた。理屈好きなほーちゃんは、自分の考えにケチをつけられるのが大嫌いなのだ。
「なるよ。大体、桜の言う普通ってなに」
「え?」
突然、思いがけない方向から質問されて一瞬、思考が止まる。普通がどんなものかなんて考えた事がなかった。でも、答えられないと負けた気がする。私は頭をフル回転させた。
「普通って、普通だよ。言葉のまま。みんながそうだと思っていること」
フル回転させたわりに、出てきた言葉はキレが悪い。私は自分の頭の悪さを呪った。案の定、ほーちゃんは勝ったと言わんばかりの表情で私を見下ろしている。
「みんなって誰だよ」
「みんなは、みんなだよ。世間の多くの人」
「その世間の多くの人が、同じことを考えている証拠なんてどこにもない」
「まあ、そうだけど」
私は言葉に詰まった。ほーちゃんの言うことは正しい。悔しいけれど、そうなのだ。
私たちは簡単に普通という言葉を使うけれど、それは人によって全然、違ったりする。「普通、こうだよね」、「こんなことするのは普通じゃない」っていうときの普通は、きっとすごく曖昧で、相手と共有しているように思えて安心するけれど、実は全く共有していなかったりするやっかいな代物なのだ。
「桜の普通と、俺の普通は違う。なんで桜は毎日、料理や掃除をするの?」
「え?」
2度目の思いがけない言葉に、私は再び固まった。
「俺の実家では、料理するのは休みの日だけ。掃除機をかけるのだって週1回だった」
「そうなの?」
私の実家では母が毎日、料理をしていた。朝食も夕食もほとんど手作りだったし、学生のときは弁当だって毎朝5時に起きて作ってくれた。母はきれい好きだったから、掃除だって毎日欠かさずやっていたように思う。専業主婦というのもあっただろうが、私にとってはそれが当たり前だったし、家事というのは毎日やるものだと思っていた。
「うちは会社やってたから、父さんも母さんも朝から夜遅くまで働いてたしな」
「会社?」
ほーちゃんの両親が会社を経営していたなんて、初めて知った。そう言えば、両親の話を聞くこと自体これが初めてかもしれない。年の離れたお兄さんがいるのは知っていたけれど、家族について話す機会はこれまでほとんど無かった。意図的に避けていたのではなく、なんとなく話題に上ることがなかったのだ。
「家族でやってる小さな会社だよ。今は兄ちゃんが後を継いでる。俺たちの夕飯は大体、外食か出前だったけど、夏になると毎週金曜日はサラダバーの日って決まってた」
「…サラダバー?」
サラダーバーと言えば、ホテルやレストランのバイキングで自由に野菜を取って食べる、アレのことである。ということは、わざわざサラダバーのためだけに、店に行くということだろうか。
「桜、なんか勘違いしてる。俺が言ってるのは、家でやるサラダバーのこと」
「家で?」
ますます訳が分からない。家でサラダバーをやるって、どういうこと。疑問が盛大に顔に出ていたのか、ほーちゃんはお茶を一口飲むと説明を始めた。
「サラダバーって言っても、大したもんじゃない。レタスとかトマトとか、いろんな野菜を皿に並べて自分たちで自由に取っていくだけ。夏は暑いから俺も兄ちゃんもあんまり食べたがらなくて、見かねた母さんが週に1回、野菜だけでも何とか食べさせよう用意してくれたんだ」
夏にそうめんはよく聞くが、サラダバーという手があったとは。確かに野菜なら食べやすいし、栄養も摂れる。何より、火を使わないから準備する方も暑くない。
「ほーちゃんのお母さん、天才だね」
「いや、単に料理が下手だったんだよ」
サラダなら上手も下手も関係ないから、とほーちゃんは付け加えた。
「でも、お母さんの愛情を感じるよ」
「…まあ」
ほーちゃんは下を向いてぽりぽりと頬を掻いた。恥ずかしいときに頬の下の方を掻くのは、ほーちゃんの癖だ。その姿がなんだか可愛くて、私はちょっといじめたくなった。
「家事分担の話をしたとき、何で言わなかったの?」
話し合いのとき、ほーちゃんがぽかんとしていた理由はこれだったのだ。そもそも家事を毎日するという習慣がないのだから、当番制で家事を回していくという理由が理解できなかったに違いない。
ほーちゃんはしばらく黙ってから、居心地悪そうに言った。
「俺の家が普通じゃないことは分かってたから、家事を毎日する桜の方が、きっと正しいんだろうって思った」
正しいかなんて関係ない。そう言いかけて、私は口をつぐんだ。心の中で、自分の方が普通で、だから正しいのだと思っていることに気付いたからだ。
「桜は悪くないよ。きっと、誰でも自分が正しいって思ってる」
ほーちゃんはいつもと同じように、片方の眉だけ上げて笑った。その皮肉っぽい笑顔は、私が彼を一番最初に素敵だと思ったところだ。
「それに、もう桜が話を進めちゃってたし、途中で口出すのも悪いかなと思って」
「…ごめん」
「いいよ。それと」
「うん」
「…俺も、ごめん。ちゃんと言うべきだった」
視線を私から逸らして、小さく謝るほーちゃんはまるで小さな子どものようだ。その様子に私は思わず、声を出して笑った。
「なんだよ」
笑い続ける私を見て、ほーちゃんもつられて笑う。
「なんだよ。笑うなよ」
「だって」
ひとしきり笑った後、私たちはサラダをおかずにご飯を食べた。サラダはおかずにならないと思っていたけれど、ほーちゃんの真似をして和風ドレッシングををかけたら意外にいけるのが分かった。今年の夏、最大の発見かもしれない。



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蒼樹唯恭
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