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カレーライスの味
窓を開けて風を入れる。初夏の空気が閉め切っていた部屋にスーッと入り込み、スパイスの香りが少し和らぐ。
紗子(さえこ)は読みかけの本をテーブルの上に伏せ、大きく伸びをした。
時刻は午後4時。もう少ししたら小学生の息子達が帰ってくるだろう。
『お母さん、今日の晩ごはん、なに?』
小学3年生の兄・浩(ひろ)は、帰宅すると決まってこう言う。もう口癖なのだ。最近では弟・明(あきら)も兄の真似をするようになったので、紗子は2回、同じことを答えなければならない。
それは面倒くさいが、少し嬉しい瞬間でもあった。
息子たちは紗子が夕飯のメニューを答えると、嬉しいときは歓声を上げる。逆にそうでないときは肩を落とす。そして、少しこちらを気遣うようにして『でも、お母さんのごはんは、ぜんぶおいしいよ』と言ってくれるのだ。
いつも無言で食卓に着く夫・秀人(ひでひと)とは雲泥の差である。
「ただいま!」
「ただいまー!」
紗子が大きなため息をつきかけたとき、玄関の扉が勢いよく開いて浩と明の声が響いた。ドタドタと勢いよく廊下を走る音がする。しばらくするとキッチンに彼らが顔を出した。
「手は洗った?うがいは?」
「したよ!」
「した!でも兄ちゃんは、うがい1回しか、しなかった!」
「うるせーな!ちゃんとしたよ」
「ちがうよ!してなかった。ぼく、見たもん!」
「お前だって、石鹸つかってなかったじゃん!」
ケンカが勃発しそうになったタイミングで、紗子は大きく1度手を叩いた。
「はーい、そこまで」
「でも」
「でも、じゃない。性質の悪いウイルスが流行ってるから、学校から帰ったらちゃんと手洗いとうがいするって約束したよね?」
紗子は2人を交互に見つめ、面白く無さそうに口をとがらせる浩と明を目で威嚇する。すると彼らは渋々ながら洗面所へ向かって行った。
その後ろ姿を見送ると、エプロンのひもを締め直し、グツグツと煮立っている鍋へと再び向き直る。
鍋のなかからは湯気と、食欲をそそるスパイスの香りがモクモクと出て来て腹の虫が一度ぐうと鳴った。
今日の夕飯は浩と明が大好きなカレーライスだ。
紗子は昨晩から煮込み始めたカレーを見つめて、一人笑んだ。
カレーを作るとき、紗子は決まって思い出すことがある。それは結婚前、秀人の実家でカレーを食べたときのことだ。
秀人が結婚するまで実家住まいだったこともあり、紗子は交際中から何度か彼の実家に足を運んでいた。夕飯をご馳走になることも多く、関東と関西の食文化の違いを実体験したのもこの頃だった。
なかでも一番衝撃を受けたのはカレーライスである。義理母は東京生まれでカレーには豚肉を入れたが、関西で生まれ育った紗子はその時まで牛肉の入ったカレーしか食べた事がなかった。
ある日の夕方、いつものように秀人の実家を訪ねていた紗子は、そのままの流れで夕飯を一緒に食べることになった。居間でテレビを観ていたときからスパイスの香りがしていたので、カレーライスが出てくることは容易に予想がついたのだが、目の前に出されたそれを見て紗子は目を丸くした。
『口に合うか分からないけれど…』
義理母が遠慮がちに置いた皿の中には、湯気が立った白飯と茶色のルー。よく馴染んだ光景のはずなのに、その場にあるはずのないのものが見える。ああ、これはどう見ても牛肉ではない。豚肉だ。
紗子はなるべく不自然に見えないように、笑顔で『いただきます』と言って皿を受け取った。隣に座っていた秀人は待ちきれないのか、紗子がスプーンを持つ前にもう食べ始めていた。
ここで食べないという選択肢はない。そんな強迫観念がどこかから沸き起こり、紗子を突き動かす。
紗子は小さく息を吐くと、豚肉の入ったルーとご飯を一緒にすくって口に入れた。
『おいしいです』
一口食べたそれは、本当においしかった。豚肉がルーとよく絡み合っていて、牛肉ほど主張せずさっぱり食べられる。
『やっぱり、カレーは自分の家のが一番だよな』
秀人はそう言って、自分の皿に盛られたそれをどんどん平らげていく。そんな将来の夫を横目で見ながら、紗子はゆっくりと次のひとさじを口に運んだ。
よく煮込まれた具材。市販のルーを使った、どこの家にもあるカレー。豚肉を使ってはいるが、別段、変わったところは一つもない。
しかし、それは決定的に他のカレーとは違った。秀人の家のカレーは、秀人の家の味がした。
それはもちろん、豚肉が使われているからだけではない。紗子は再び愕然とした。
カレーには「その家」の生活やにおいが染み込んでいる。同じ野菜、同じ肉、同じスパイスを使っても同じではない。隠し味だって関係ない。「その家」を形作るすべてのものが溶け込んで、目の前のドロドロしたものを生み出していた。
3口目で紗子は反射的に吐きそうになった。
おいしくなかったから、ではもちろん、ない。異質なものを体内に取り込むときの拒否反応、というのが一番近いだろう。
今までの自分には無かったものが、突然、プライベートな領域に入り込んで来るときの違和感とそれに伴う自己防衛。侵されてなるものか、という叫び声が心のどこかで聞こえる。
『無理しなくていいのよ?』
紗子の様子を見ていた義理母が心配そうに声を掛けた。
『いいえ。ちょっと熱くて、びっくりしただけです』
『確かにちょっと熱すぎる。母さん、これじゃ火傷しちゃうよ』
秀人から無意識に差し出された救いの手に紗子は内心、感謝した。
『…いただきます』
スプーンを握り直し、カレーに正面から対峙する。
ー全部、食べてやる。
「その家」を受け入れるために。あるいは、自分が受け入れられるために。
紗子はそう誓うとガブガブと勢いよく食べ始め、5分後には皿は空になっていた。義理母が呆気にとられた顔を今でもよく覚えている。
カレーを作る度に必死にカレーを食べたあの日のことを思い出して、紗子はおかしいような愛おしいような気持ちになった。義理母は優しい人だから、きっと食べられなくても怒らなかっただろうに。しかし、それも今だから言えることだ。
再び廊下を走る音が聞こえ、キッチンに子どもたちが流れ込んできた。母親を見上げる2人の顔は期待に満ちて輝いている。
「お母さん、今日の晩ごはんはカレーライス?」
「そうだよ」
浩と明が大げさに飛び上がる。帰宅したときから匂いで分かっていたのだろうが、わざわざ確認するところがまだまだ可愛い。
「お肉、いっぱい入ってる?」
早速ゲームをするためにリビングに行った兄の姿を目で追いつつ、明が訊ねた。
「うん。今日は鳥さんだよ」
「鳥さん好き!」
「うん、知ってる。お父さんは牛肉の方が好きだけどね」
「そうなの?でも、いつもぜんぶ食べてるよ」
「うん。食べてるけど、豚さんや鳥さんより牛さんが好きなんだよ」
「ふーん。でも、お母さんのカレーはぜんぶ同じ味がするよ」
「同じ味?」
肉ごとにルーや隠し味を変える、というほど料理好きではない紗子はギクッとした。
しかし、明はそれに気付かず笑って続ける。
「うん、お母さんの味!ぼく、ぜんぶすき!」
「…」
「お母さん?」
「…ふふふ。お母さんの味かあ、うまいこと言うね」
紗子に褒められて得意げな明はその場でジャンプすると、飛ぶような足取りでリビングへ走って行った。
「そっか、お母さんの味か」
紗子は鍋に向き合い、カレーの香りを鼻いっぱいに吸い込んだ。大きく息を吐き終わると、自然と笑みがこぼれる。
長年探していたパズルのピースが見つかった清々しい気持ちが、彼女を自然に微笑ませた。
そう、紗子は今、「この家」のカレーを作っているのだ。
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