見出し画像

不妊治療とお空と出産

皆様こんにちは今晩は。

連投し過ぎでは? 唯華(いちか)です。

でも今晩はどんどん書いていきたいです。
皆様は、20歳、30歳、40歳、……になった時って何か記念のことをしましたか。

例えばバンジージャンプに挑戦したとか、リムジンでパーティーしちゃったぜとか。

私は20歳の時には特に何もしておらず、そもそも何か記念のことをするという概念もなかったのですが、30歳の時にはしました。

アート盛り盛りネイルをしました。

……弱くないですか。

一般にはもっと何か大きな記念のことをしたりするものなのでしょうか。画像がその時のネイルです。
やっと内容に関係のある画像を載せました。無理矢理感が溢れますね。

さて、先程の記事では生まれ育ちと押し寄せる近況について書きましたが、ここでは不妊治療について。

ちょっとセンシティブな内容になりますので、苦手な方はそっと画面を変えてくださいね。

私は、高度不妊治療と言われる体外受精で子どもを授かりました。

正確に言えば体外受精と顕微授精は違うんですが、両方しました。

一度の採卵、二度の移植で第一子を授かりました。

約一年間の不妊治療でした。

ここから先は更にセンシティブになります。




二度の移植を経て産まれた第一子ですが、実は一度目の移植でも人生初の妊娠はしました。

ですが、胎嚢確認後、心拍確認前のかなり初期に、流れてしまったんですね。

後から振り返ると胎嚢も小さかったです。

検査をしていないので絶対ではないですが、お医者様は胎児側の染色体異常だろうと言っていました。

当時私は30歳になったばかりでしたが、若くても染色体異常の卵は誰でも持っていて、初期の流産の殆どは胎児側の染色体異常によるものらしいです。

その後、手術後にリセット(生理)を一度迎えてから、二度目の移植で第一子がきてくれました。

絶望の渦中から、少しずつ立ち直り、迎えた二度目の移植でした。
その立ち直る過程で私が思ったのは、「この子は立派に寿命を全うしたんだ」ということでした。

この思いに至るまでに、自分を責めたりなど色々とあった訳ですが、当時とても励まされた出来事がありました。

それは、不妊治療クリニックのお医者様が、院長先生の流産に対するお考えを伝えてくださったことです。

「80年でもお腹の中の数日・数週間でも、寿命を全うしたということに変わりはない」

80年という長い年月と同じく尊いということを言われたこと、そして妊娠のプロである院長先生と、自分の考え至ったことが同じだったということにとても励まされました。

なので、当時の私と同じような境遇・思いに居る人の目に触れることができたらいいなと思って、書いてみました。


不妊治療自体は、29歳の時に、数回しか自然のタイミングを待っていない状態で始めました。

私がとにかく早く子どもがほしかったのと、生来の心配性で何となく自分はできにくいんじゃないかという気がしていた為です。

結果、ありがたくないことにその第六感は当たっていた訳ですが。

旦那の検査は平均以上の成績だったので、私に不妊原因があることは明らかでした。

ですが私の検査にも、軽度のPCOS(多嚢胞性卵巣症候群)であること以外は特に異常はありませんでした。

PCOSを医療でカバーしながらの人工授精、同時にタイミング法も行うということを2周期しましたが授かりませんでした。

また、PCOS(卵子が多い)はずだった私でしたが、二度目の検査で少し減りが速いことが分かり、体外受精に進みました。

……ですが今現在、婦人科系の手術を近々する関係で受けた検査でも、卵子は多めのままです。あの時の一時的な減りは何だったのか分かりません。

とにかく体外受精に進んだ私ですが、今思えばピックアップ障害だったのかなと思います。

卵管造影という卵管の通りを診る検査でも異常はなかったので、そもそも卵子を卵管に取り込むことができていないピックアップ障害だったのかなと。

不妊原因が私にあることだけははっきりしているので、旦那に謝罪したことも卑屈になったことも何度もありました。

人工授精を二度経ての体外受精、一年という治療期間。

大して工程踏んでない、期間も短いと思う方もいらっしゃるかと思います。

ですが私自身にとっては、甚大なストレスのかかる期間でした。

友人達の妊娠報告や、見たくないはずのマタニティマークと妊婦さんをほぼ全自動で発見してしまう自分。

心に闇が溜まっていくごとに、自分が嫌な人間に堕ちていくのが手に取るように分かりました。
逆に一周回って悟りの境地のようになった期間もありました。

流産になってしまった一度目の妊娠の時は、初めて見る検査薬の陽性の線に大泣きしました。

二度目の妊娠の時は、とにかく継続できるかが不安で不安で仕方なく、「何週までに何を確認できればOKラインか」を初期は常に先生に聞いていました。もし、また残念な結果になってしまった時の為の防衛線を張っていたんだと思います。

無事、産まれてきてくれた第一子は、今では立派にギャン泣きで母を「もう無理」にさせる2歳となりました。

こう書いてみるとギャン泣きもありがたいなとは思いますが、やっぱり無理ですね。疲弊しますね。それはそれこれはこれ。

ちょっと生々しい話で恐縮ですが、産後暫くして避妊しない期間がわりとあっても妊娠しなかったので、やっぱり不妊症なことは間違いないんだなぁと思います。

流産も含めたこうした内容を平常心で書けているのは、当時からの旦那の支えは勿論のこと、時間経過の治癒ってすごいなと実感しています。

同じような思いをしている人に、簡単に大丈夫だよなんて口が裂けても言えないけれど、今よりは絶対大丈夫になっていくよ、ほんの少しずつでもなっていくよって伝えたい。

めちゃくちゃな長文になりましたね。面目ない。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?