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浅野智彦『「若者」とは誰か 増補新版』要約と感想
社会学者、浅野智彦の著作『「若者」とは誰か 増補新版』を読んだ。以下は本の要約と感想です。
要約1 消費行動からコミュニケーション論へ
「若者論」は切り口がその時代によって異なる。
1980年代においては、日本の消費社会化が進むのと同時並行に、その消費行動によって若者は語られていた。
しかし、1990年代に入ると、若者論の中心は「消費行動」から「コミュニケーション論」へと性質を変えていった。
それが如実に表れたのが「おたく論」である。当初おたくは、その趣味嗜好など消費活動をもとに語られることが多かった。しかし、ある時期から「おたく」はそのコミュニケーションの特徴から語られるようになった。
そして、その特徴を大人たちは「自閉的」と捉え、若者のコミュニケーションが「希薄化」しているのだと繋げた。
要約2 多元化する自己
しかし、実際に調査してみると若者の間でそのようなコミュニケーションの「希薄化」が進んでいるという傾向は見られなかった。それではなぜ、大人は若者の間に「希薄化」を読み取ったのか。
実は実際に「希薄化」していたのは大人側のほうではないか、と北田暁大は指摘している。その頃から会社や地域社会への全人格的なコミットメントに対する風潮が変わり始め、共同体への関わり方が小さくなっていた。その自分たちのコミュニケーションの「希薄化」を、大人たちは若者に投影していたのである。
実際に若者の間で拡がっていたコミュニケーション様式、それは全体を俯瞰してまとめることが難しい、「多元的な」コミュニケーションスタイルであった。
その場や相手によって顔を使い分ける「自己」。そこに何かしらの共通項目があるわけではなく、それぞれの面は他の場面から予測しがたい自己像。その予測のし難さが、大人たちが若者のコミュニケーションに「希薄化」を読み取った一因ではないかと思われる。
そこでは統一的な自己像というのが描きにくい、「多元的な自己」という現象が表れていた。
感想
若者論の変遷を丁寧に追った一冊。浅野智彦と言えば『自己への物語論的接近』(2001年)の頃は自己を「物語」という「統一的な解釈への欲求」として描いていたが、15年近く経ったこの本では、そういった「統一的な自己」ではなく、「多元的な自己」としての自己像があるという認識に移っている。
僕が若い頃『自己への物語論的接近』を読んだときは、そこで描かれている自己像に随分と拒否感を感じたものだ。もっと統一的な、「書き換え不可能な確たる自己」という存在があると、ある種の信仰を持っていた。
しかし、社会学を勉強するにつれて、もしくは時代の変化により、「多元的な自己」という考えは、自分に自然に馴染むようになった。この本を読んでも、やはり「知っている」ことが書かれているという感想を持った。
これは時代の変化なのか。それとも僕が年齢を重ねたからなのか。今はSNSによって自分が見せる自己をアカウントごとに演出することが、特別珍しくもないことになっている。そのような現在においては、若者は「多元的な自己」という考えを、すんなりと受け入れるのだろうか。それとも、僕が若い頃みたいに、統合的な一つのアイデンティティへの憧れというものを持っているのだろうか。