アメリカ側から見た東京裁判史観の虚妄
東京裁判を批判した共和党タフト議員
国会図書館などを利用して本格的な調査を始めると、驚くべきことばかりであった。
東京裁判史観を批判する外国の有識者たちが、多数存在していたからだ。
東京裁判を批判した外国人として有名なのは、東京裁判で判事を務め、『日本無罪論』を書いたインドのラダ・ビノッド・パール判事だろう。靖国神社の境内には、その銅像が建てられている。
~中略~
最も目を惹いたのは、ロバート・A・タフト上院議員だ。
彼は1940年、1948年、1952年と3回にわたってアメリカ大統領選挙予備選に出馬するなど、共和党を代表する政治家だ。「ミスター共和党」と呼ばれ、アメリカ連邦会議には、アメリカの生んだ偉大な上院議員として、その功績を讃える壮麗な記念碑が建てられているほどだ。
そのタフト上院議員が、東京裁判開始からわずか半年後の1946年10月5日、地元オハイオ州ケニヨン法科大学で開催された学会に出席して、「アングロサクソンの伝統たる正義と自由」について講義した。
この講演の最後の部分で、彼はドイツの戦争犯罪を裁いたニュルンベルク裁判に言及し、「事後法による裁判は将来の侵略戦争の発生をくい止める役に立たない」こと、また、「この裁判は正義の実現ではなくして復讐心の発現である」ことを力説し、「勝者による敗者の裁判は、どれほど司法的な体裁を整えてみても、けっして公正なものではありえない」と批判したのだ。
そして「ドイツ人戦犯12名の処刑は、アメリカの歴史の汚点となるであろう」と断言し、「同じ過ちが日本において繰り返されないことを切に祈る。なぜならば日本に対してはドイツと異なり、復讐という名目がたちにくいからだ」と説いた。
野党とはいえ、大統領候補になるほど著名で、実力のある政治家が、公の席で、正面から東京裁判を批判していたのだ。これは本当に驚くべきことだ。
「強い日本」を支持するアメリカ
アメリカは基本的に、共和党と民主党という2つの政党が政権交代を繰り返してきている。
そして民主党のルーズヴェルトは1933年、大統領に就任すると直ちに、共産主義を掲げるソ連と国交を樹立し、反共を唱えるドイツと日本に対して敵対的な外交政策をとるようになった。
この対ドイツ敵対外交によって、「アメリカがヨーロッパの紛争に巻き込まれることになるのではないか」と懸念した共和党議員たちは、1935年から37年にかけて一連の中立法を制定し、外国で戦争が起こった場合、アメリカが交戦国に軍需物質を輸出したり、借款を供与したりすることを禁じた。
その理由は、「戦争は必然的に政府への権限集中を生み、個人の自由を制限する全体主義へと発展しかねない」とする初代大統領ワシントン以来の伝統的な外交原則に忠実であろうとしたからである。
~中略~
ところが1939年、第二次世界大戦が欧州で勃発すると、民主党のルーズヴェルトは、イギリスに対する軍事援助を実施するため、武器貸与法案を連邦会議に提出した。
この法案に真っ向から反対したのが、共和党のハーバード・フーヴァー前大統領やロバート・A・タフト上院議員、ハミルトン・フィッシュ下院議員たちであり、1940年9月に結成された「アメリカ第一委員会」であった。
大西洋単独飛行横断で有名なチャールズ・リンドバーグがスポークスマンを務め、最盛期には650の支部と80万人の会員を誇った「アメリカ第一委員会」は、「軍需物質の外国援助は、自国の国防力を弱めるとともに、外国での戦争にアメリカを巻き込むことになる」として武器貸与法案に反対するとともに、対日経済制裁の強化にも反対したのである。
そこには、「弱く、敗北した日本ではなく、強い日本を維持することがアメリカの利益となる」(ジョンズ・ホプキンス大学タイラー・デネット)という判断があった。
「強い日本」がいないと、アジアでの軍事バランスが崩れ、アメリカ政府はアジアに対して介入せざるを得ず、結果的にもアメリカも、アジアでの戦争に巻き込まれると考えたのである。
決して日本に好意的であったからではないが、当時のアメリカ共和党の政治家たちがこのような視点から、対日経済制裁に反対していたことは知っておいていい事実だ。
アメリカは一枚岩でないし、アメリカ全体が日本の敵であったわけでもない。
ところが戦前のアメリカにも、「強い日本」を支持する政治勢力があったことを触れない人が多い。触れないどころか、「アメリカはすべて日本の敵である」かのように描き、日米対立を煽る人たちがいる。
その意図は何なのか。日米分断工作に引っかからないようにしたいものだ。
東京裁判を批判する国連国際法委員会
ロバート・A・タフトというアメリカ共和党を代表する政治家が、東京裁判を批判した背景には、もう一つ、大きな理由がある。
法の支配と国際法だ。
保守派は、歴史と伝統を尊重する。そして、歴史と伝統の中で確立されてきた慣習を文章化したものを「法」と呼ぶ。
法とは、慣習の中から発見されるものであって、人為的に作るものではない、というのが保守派の立場だ。
そしてロバート・A・タフト上院議員は、法の支配を重視する保守派として、東京裁判に反対した。
なぜならば、東京裁判では、戦争を始めたことを「平和に対する罪」と見做したのだが、当時の国際法には「平和に対する罪」という概念は存在しなかったからだ。
よって、日本の指導者を「平和に対する罪」で裁くことは実定国際法に違反している、というのがタフト上院議員の立場であったのだ。
なお、国際法の世界では、ロバート・A・タフトの考え方が支持されている。
たとえば、1983年に国連国際法委員会の特別報告書で、セネガル出身の ドゥドゥ・ティアム委員による第一次報告書が、国際法委員会の審議のための基調報告として提出された。
1985年6月に国連から公刊された「1983年度国際法委員会年報」(第2巻、1部)所載の「人類の平和と安全に対する罪の法典案に関する第一次報告書」(140~141P)には、次のように記されている。
<ニュルンベルク裁判は疑いなく一つの重要な先例である。だが、その偶発的特徴と、設置された裁判所の特別目的性とは、遺憾とすべき事柄だった。ニュルンベルク裁判にあびせられた諸批判は周知のところであり、ここで深く論ずる必要はない。ニュルンベルク裁判は、「法ナケレバ罪ナク、法ナケレバ罰ナシ」という原則を侵犯したことを非難されてきた。事後において、行為が犯罪とされ、刑罰が定められたからである。裁かれる者との保護と、弁護の権利とが、犯罪および刑罰が事前に定められていることを必要としていたので、敗者を勝者の裁判権の下に置き、特別目的のための裁判権を設定したことの故に、ニュルンベルク裁判は批判されてきた。>
要するに国連国際法委員会も、ニュルンベルク裁判を「国際法の原則に反する」として批判しているわけだ。この批判は当然、ニュルンベルク裁判の法理をそのまま採用した東京裁判にも向けられている。
国連の国際法の専門家たちは、「東京裁判は国際法上、間違っている」ことを認めているわけだ。ところが、日本の国際法学者たちは、こうした事実に触れようとしない。
こと歴史認識に限れば、日本は完全に情報鎖国状態にあると言ってよい。
著者 江崎道朗