いわゆる少女小説から現行少女小説までの距離 『少女小説ガイド』に寄せて
『大人だって読みたい!少女小説ガイド』と続編『これからも読みたい!もっと少女小説ガイド』(時事通信社)はブックガイドとして有用なだけでなく、過去の女性向け小説を再評価し、位置づける役割も担っている、非常に重要な仕事だ。
これは大前提としつつも、おそらく少なくない読者が気にするのはそこで扱われている「少女小説」の範囲だろう。何が含まれ、何を含めないのか。
筆者はその線引きにケチをつけたいわけではない。
ただその線の引き方には興味を惹かれたから、「含まれない側」がなぜ含まれなかったのかについて少し考察してみたい。
■小中高生女子が実際に読んだ小説すべてが「少女小説」とみなされているわけではない
全国学校図書館協議会によって毎年行われている学校読書調査でよく読まれている本を古い順に近年に至るまでの流れを見ていくと、1980年代に入って集英社コバルト文庫や角川文庫が台頭し、中高生女子の読む本が大きく変わったことがわかる。
それ以前は『若草物語』『赤毛のアン』『小公女』といった海外の定番作品や、純文学作家や中間小説の作家が書いた若い女性が主人公の作品、青春小説が顔をのぞかせるような状況だった。
ところが1980年代になると氷室冴子や新井素子、赤川次郎らが「読んだ本」上位を席巻、講談社ティーンズハートが登場すると小学生女子にも広がり、1990年には折原みとや藤本ひとみ、倉橋耀子らも名前を連ねる(純文学をフィールドとしていたが、吉本ばななもいる。彼女も大島弓子らの少女マンガの影響を受けていたわけで、当時の読者側からの視点でいえば「少女小説」でくくって良いように思われる)。
『少女小説ガイド』でもこれが「少女小説」の中核的なイメージとなっており、そこからレーベル的な派生、作家のその後の仕事、等々へと枝葉を伸ばして選書されている。したがって氷室以前の作品はほぼ「少女小説」として扱われていない。これに違和感はない。
しかし学校読書調査上では1995年、2000年とさらに時代が進むと、いわゆる少女小説レーベルからのランクイン数は激減していき、2005年にはゼロになる。
代わって2000年代に登場したのは二度のケータイ小説ブームやセカチュー、いま会いといった当時「純愛」と呼ばれた作品群、あるいは湊かなえや山田悠介であり、2010年代にはボカロ小説や住野よる、本屋大賞受賞作が並ぶようになった。
本屋大賞受賞作家にはかつての少女小説読者も少なくなく、少女小説からの線を引かれることもしばしばある一方で、2000年代の純愛小説、ケータイ小説や2010年代以降のボカロ小説は集英社コバルト文庫などで展開された少女小説とはまるで別の何かとみなされているような印象を受ける。
実際、いま挙げた小説はほぼ『少女小説ガイド』には取り上げられていない。
児童文庫では小林深雪や倉橋耀子、藤本ひとみらが活動するようになったものの、2000年代以降の中高生向け人気作品では従来の少女小説レーベルの書き手とは作家的なつながりは比較的希薄だ(とはいえ『余命10年』の小坂流加は第3回講談社ティーンズハート大賞で期待賞受賞であるなど、まったくないわけでもない)。
内容的に見ても、2010年代以降の中高生が読んでいる小説は、同時期に台頭してきた集英社オレンジ文庫などのライト文芸に見られる「かつて少女小説読者だった大人に向けた作品」とは大半が好まれる主人公像やプロットも異なる。
しかし「少女が読む小説」という意味での「少女小説」としては、2000年代以降に質的な変化がありつつも、1980年代からの連続性を見ることもできるように思われる。もちろん、筆者とて溝の大きさも感じないわけではない。ここでは少しそこを掘ってみたい。
■ケータイ小説が少女小説とみなされなかったのはなぜか
2000年代にはすでに「読者の平均年齢が30代」とか「いや、もう40代だ」などと言われながら、コバルト文庫等は「少女小説」レーベルと形容されていたと記憶する。一方で十代が読むケータイ小説は「少女小説」とは言われなかった。
これは「少女小説」という呼称が単に読者の年齢的な区分ではなく内容的な分類も含むからだが、それにしても何がケータイ小説と少女小説では違ったのか。
内容という点からいえば、たとえば学校読書調査上では難病で死ぬ男女の小説/実話は常に人気がある。
1960年代 『愛と死をみつめて』
1970年代 『翼は心につけて』『遺書白い少女』
1980年代 『飛鳥へ、そしてまだ見ぬ子へ』『さと子の日記』
1990年代 『病院で死ぬということ』 折原みと『時の輝き』
2000年代『世界の中心で、愛をさけぶ』、Yoshi、『余命1ヶ月の花嫁』
2010年代~ ライト文芸系の余命もの
初期のコバルト文庫ではこうした泣ける実話ものも人気があったが、『時の輝き』(これは講談社)以降、実話から小説へと徐々に比重を移していく。2000年代ではセカチューやYoshi、『Teddybear』などがこの難病もの/余命もの作品であり(とはいえ2000年代の純愛小説の書き手やケータイ小説の作家が具体的に『時の輝き』をはじめとする先行作品を意識し、参照していたかはわからない)、今では『今夜、世界からこの恋が消えても』などが該当する。
これはあくまで筆者の感覚にすぎないが、おそらく近年の『あの花が咲く丘で、君とまた出会えたら。』などの汐見夏衛作品などのスターツの余命もの、青春恋愛ものを「少女小説」と形容しても、それほど大きな抵抗はないのではないか。
しかし一方で2000年代の諸作品に関しては「少女小説」と呼ぶのは違和感がある。なぜか。
ひとつは男性作家によるものは少女小説とみなされにくいからだろう(もちろん、津原やすみのような例外はいるものの)。『セカチュー』『いま会い』、Yoshi、いずれも男性作家であり、女性の描き方に関して男性の理想像やミソジニーが投影されている部分がある。
そもそも1960年代から1970年代にかけての富島健夫らの「大人の男性が少女の性の成熟などを描いた」ジュニア小説を過去のものとして、1970年代後半から氷室冴子ら「女性が少女を描いた」少女小説が台頭してきた歴史を思えば(詳しくは嵯峨景子『コバルト文庫で辿る少女小説変遷史』『氷室冴子とその時代』参照)、いくら十代の少女に人気があるといっても、いかにも「男性が描いた少女像」が色濃い2000年代の作品群を「少女小説とは呼びたくない」という感覚はわかる。
だが2000年代後半の第二次ケータイ小説ブームでは、主要な作家はほとんど女性になる。にもかかわらず、それでも「少女小説」とは呼びがたい距離があるように感じる。
ふたつめの理由としては文体だろう。一画面に表示できる文字数の少ないフィーチャーフォンでサクサク読める文体で書かれたケータイ小説は書籍にした際に「スカスカ」「描写がない」と批判された。
もっとも、80~90年代少女小説では新井素子や花井愛子も独特の文体が既成文壇や新聞記者などから批判や揶揄の対象となったし、描写よりもプロットを進めることを重視している点ではケータイ小説の文体と花井文体は近い志向だった。
しかし大人になった少女小説読者からすれば、自分たちより下の世代である十代の青春・恋愛模様はそれだけで気恥ずかしく、拙く見える文体となれば余計に受けいれがたいという心情も理解できなくはない。花井文体は今見てもかなり独特だし、時代を経て再読に耐えうるかと言われれば、むずかしい作品のほうが多い(なお、断っておけば筆者はその時代にだけ熱狂的に愛される作品も重要だと考えており、いま読まれない=ダメな作品だと言いたいわけではない。花井作品のような勢いと破壊力のある子ども・若者向け小説がもっと出てきてほしいとも思っている)。
みっつめの理由としては、ギャルやヤンキーは「少女小説」の対象となる「少女」とはみなされなかったから、ではないか。
ここではひとまとめにしたが、本来、都会の高偏差値帯の中高一貫校から始まったギャル文化と地方・郊外の低偏差値帯の中高を中心としたヤンキー文化がまったくの別物であったことは荒井悠介『若者たちはなぜ悪さに魅せられたのか』などに詳しい。だが90年代後半から2000年代以降にかけてギャル文化は大衆化して地方にも拡散していった。美嘉『恋空』でギャルである美嘉の想い人ヒロ(ギャル男)の姉がレディースの総長だったという設定なのは、ギャルとヤンキーの境目がゆるくなっていった時代の地方の不良の表象だと言える。少女マンガでは紡木たくや矢沢あいなど不良と恋愛する作品はあったが、従来の少女小説では少なくともメインストリームにはあまりなかったように思われる。
大筋の構成としては、冒頭がポエムで始まり、死別で終わるティーンの悲恋が描かれることは1990年代少女小説の折原みと『時の輝き』も、2000年代ケータイ小説のべあ姫『Teddybear』も、2010年代以降の余命ものも共通している。しかしメインキャラがギャルやヤンキーで未成年ながら飲酒やタバコを嗜み、比較的軽々しく性行為に及ぶような人物造形だと「少女小説」とはみなされない。読者(あるいは小説の評者)の所属している文化圏が、ギャル/ヤンキーとそれ以外では違うからだ。
ケータイ小説に限らず、たとえば初期の綿矢りさは少女小説側に入れてもいいかなと思えても金原ひとみは入れないだろうし、よしもとばななはアリ寄りでも山田詠美はナシ。そういうことだ。
(逆に言えば2000年代の二度のケータイ小説ブームはギャル、ヤンキー的な主人公像が中高生女子から支持された例外的な時期であり、今はそのギャル、ヤンキー系の女子はおそらく小説はほとんど読まずにエル・テレサやLANA、7などを聴いていると思われる)
■女性向けウェブ小説は少女小説とみなされ、ボカロ小説はみなされないのはなぜか
また、2冊の『少女小説ガイド』の収録作を見ていて気づくのは、書籍化された女性向けウェブ小説は『薬屋のひとりごと』『はめふら』、糸森環をはじめ複数あるのにボカロ小説はひとつもない、という点である(ただしファンタジーが多く、ウェブ発でも現代を舞台にした大人の恋愛小説はあまり入っていないという印象を受ける)。どちらも2000年代以降に台頭してきた比較的新しい文化発という点では共通しているのに、見事に分かれている。
しかしボカロ小説も、カゲプロはともかく、青春恋愛グループものであるハニワ原作の『告白予行練習』や思春期の自意識がふしぎな現象として現れる少女たちを描いたかいりきベア原作『ベノム』は内容的には少女小説と呼んでいいと思うし、ダークファンタジーものの『悪ノ娘』や青春もののChinozo原作『グッバイ宣言』も入れていいと個人的には思う。
それでも入らない理由としては、『少女小説ガイド』に関して言えば「大人も読みたい」というコンセプト上、青春ものはあまり選ばれていないからだろう。中高生に支持されるボカロ小説は思春期の自意識や葛藤、青春時代の恋愛をド直球に扱っている。
近年のスターツの青春ものライト文芸が入らないのもこれでほぼ説明が付く。青春ものでも取り上げられている作品は、大人でも読めるほかの要素があるから選ばれているのであり、ボカロ小説や最近のスターツは青春・自意識要素に傾斜している。
さらに、少女小説にギャル文化を入れないように、ボカロも趣味、クラスタ、派閥が違うので入れない、という理由も考えられる。実際、2010年代前半の角川ビーンズ文庫のラインナップのなかでは『告白予行練習』などのボカロ小説は相当に浮いており、ほかのファンタジー系の恋愛もの作品などとは読者層が違っていた。
とはいえケータイ小説にしてもボカロ小説にしても、一番大きい理由は、身も蓋もない話だが、1980年代や1990年代に青春を送った世代が若いころに読んできた青春ものを選ぶのはアリだが、2000年代や2010年代以降の作品は世代が違うので思い入れもないし入れない、というものではないか。
筆者は、おおよそ80年代と90年代の約20年間の少女小説レーベル黄金期の価値観をコアとして、そこから派生したとみなせる作品を(広義の)「少女小説」とする、という見方を否定したいわけではない。
いまガイドブックで取り上げて『天使がくれたもの』や『赤い糸』のようなケータイ小説を再読・再評価して何の意味があるのか、『交換ウソ日記』や『海色ダイアリー』『ウタイテ!』『キミと、いつか。』『霧島くんは普通じゃない』のような現行少女小説を大人の女性に薦めたとして、大人が読むんですかと問われれば、答えに窮してしまう。
しかし、たとえば小学生のころは『夢水』『パスワード』『怪盗クイーン』を読み、中学時代は第二次ケータイ小説ブームにハマり、その後飽きて大人向けのミステリーを読みはじめ、出版社に務め、Twitterポエム書籍化などを手がけ、今ではポスト・スターツ的な青春ものを仕掛けているという編集者を筆者は知っている。かつての読者、現・送り手側に目を向けても、2000年代ケータイ小説と2010年代以降につながりがなかったわけではなく、この流れを無視しつづけると、出版界に一大潮流を形成してきた系譜をとらえきれなくなってしまう。
あるいは、れるりりの大ヒットボカロ曲『脳漿炸裂ガール』のノベライズは『虎に翼』の脚本家・吉田恵里香が手がけたものだったが、ほとんど誰もその線から『虎に翼』や吉田の作家論を語らなかった状況は、健全ではないと思う(といっても、いまの筆者にその準備があるわけではないが)。
2000年代~現行少女小説に至る流れをスルーしてしまうよりは、「少女小説」のスコープを広げて包摂する、歴史を接続するほうが、今の文芸シーンをより深く理解できるかもしれない。
このあたりは今後、筆者が小中高生の読んだ本の歴史について書いていくつもりがあるから、それによって多少は補えればなと思っている。
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![飯田一史 ichiiida@gmail.com](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/933790/profile_ccd5f941ca940eb6c7a53534d0ed572e.jpg?width=600&crop=1:1,smart)