透明になったFくんと見つからない25巻のこと
※ホラー短編です。あまり明るい内容ではないので、気分の優れない方はご注意ください。
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静かすぎると、どこからともなく金属を撫でるような音が聞こえてくるよね。
Fくんは言った。
四畳半の手狭な部屋は、ぼくとFくんが寛ぐと足の踏み場もなくなってしまう。くたびれたクッションに乗せた腰は、伸ばすとギリギリと音を立ててしなった。
乱雑に積まれた漫画の塔は今にも崩れそうで、触れないように避けながら体勢を変える。今度は別の場所の骨がキシリと鳴いた。
あれって、自分の耳の中だけで聞こえてる音なんだって。肉の塊の中で金属の音がするなんて変だよね。
「それもそうだね」と相槌を打ちながら、ぼくは漫画の続きを探した。25巻。繰り返し読んだ長編作はボロボロで、中古ショップでも買い取って貰えなかったほどの代物だった。
確かここらへんにと思ってガサゴソやるが、勝手にポストインされた怪しげな広告チラシばかりが雑魚キャラみたいにわらわらと顔を出す。
真夏に太陽を見上げたときも、視界は真っ白なようで実は虫が這うみたいな黒い斑点があるよね。知ってた?
「知ってるよ」と返事をするが、Fくんは変わらず1人で話し続ける。その自慢げな横顔は顎が尖り、いかにも幸の薄そうな様子だった。歩けばタンスの角に小指をぶつけて悶え、しゃがみこめばローテーブルに膝をぶつけそうだ。
会社なんて糞食らえ、がFくんの口癖だった。
入社して三年目の会社で、酷い仕打ちを受けているらしかった。その現状から逃げるように、彼は身体を壊すような夜更しを続けていて、僕はたびたびそれに付き合っていた。
スマホのディスプレイが光る。迷惑メールの通知画面と一緒に表示された時刻は午前4時半。四畳半だけが世界のすべてのように静かなまま、初夏の気怠い夜が明ける。
クーラーの効きが悪くて、設定温度を一番低い数字まで下げる。今年もお前で乗り切らなくちゃいけないんだ、頼むよオンボロ。
昔は夏が一番好きな季節だったのに、いつからろくに取り柄もない暑いだけの季節になってしまったんだろう。
有名な学者が言ったらしいけど、あれって人間だけに備わった神秘的な防衛本能なんだって。
理屈っぽいくせに、Fくんはときどき胡散臭いオカルト話を嬉々として話した。隣町の廃病院に出る切り裂き魔のこと、一人暮らしの女の子のベッドの下に住み着く妖怪のこと。
切れかけてチカチカしている白熱電球のほの暗さが不安定で、僕はうっかり信じそうになる。
人間はみんな母親のお腹の中の記憶が残ってて、真っ暗な空間と穏やかな連続音を好むようにできてるんだ。
Fくんが演説している隣で、カーテンの隙間から淡く光が差し込んでいる。夏の朝は早すぎて、漏れ出す爽やかな空気に死にそうになる。
眠っていなくても朝は来るなんておかしいと言っていたのは確かFくんだった。僕と一緒で一睡もしていないけど、平日5日間は午前9時きっかりが出社時間のはずだ。
だから暗闇を怖がるなんてのは後天的なものでさ、想像力が掻き立てられるからだよ。暗闇には色々なものが潜んでいるって思っちゃう、それだけの話。
普段は弱った魚のようなFくんの目が爛々と光っている。どこで製造したのかわからない大量のドーパミンが血液中に流れているのが見えるようだった。
ランナーズハイならぬ、ノンスリーパーズハイ。絶好調のFくんはバックドラフト現象を起こした蝋燭の火みたいに元気だ。
だけど真っ白で音のない場所には何もない。何も潜んでないし、チリ一つ落っこちてない。あとは想像も、喜びも、不安も、何もない。
「夢と希望と、愛と勇気も?」と茶化したが、Fくんは聞いてくれない。まるで僕などいないように。誰に話してるんだって思ったが、きっと自分にだろう。
だからね、人間はなんの音もしない真っ白な部屋では狂ってしまうんだ。だって自分ひとりだけが異物みたいに存在する空間なんて、気持ちが悪いだろう?
そろそろ結論を出してくれよ。そう思ったが25巻を探しているうちに、僕まで目が冴えてきてしまった。
夏が好きだったのは、きっと好きなものがたくさんあったからだ。海も山もプールも好きだった。朝早くにやってたアニメの再放送も、みんなが寝静まった家の中でプレゼントを探して歩き回るのも。
逆に言えば、なんの音もしない真っ白な部屋が目の前に現れたら、それは心が壊れちゃったってことなんだよ。
こっそりプレゼントを手にとって、中身を透かしてみるのが好きだった。そうだ、夏は僕の誕生日があったんだ。
日付を確認したくてスマホのディスプレイを見る。真っ暗な画面にはいかにも幸の薄そうな顔。歩けばタンスの角に小指をぶつけて悶え、しゃがみこめばローテーブルに膝をぶつけそうだ。
実際には会社の上司が僕の足の小指を革靴で踏み潰し、同僚が持ってきた金属バットで膝を壊したんだけど。
そろそろ夜が明けるよ。カーテン、開けるね。
僕の骨張った手がカーテンのザラついた布を握り締める。
視界の端で、25巻を捉える。カバーかけていたかのように綺麗なままの、最終巻。
今日から始まるはずだった1年が、太陽に焼けて真っ白になる。蝉も鳴かない静寂に包まれてFくんは透明になり、僕の世界は僕だけが異物になった。