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圧力鍋の真実。

貧乏ゆすりで筋肉痛になると知っている人がどれだけいるだろう。

いつも通り朝7時に目を覚ますが、体を起こそうとすると太ももとふくらはぎが拒否する。

妻のゆりが「あなた、朝ごはんー」と呼ぶのにも応えられないまま足の違和感の正体を探るが、昨日はよく晴れた一日なのに一歩も外に出なかったという罪悪感しか思い出せない。

いや、一度だけ外へ出た。ベランダに出て一本だけタバコを吸った。気分転換のために手を出したのに、ぼーっとしていたら落とした灰がスエットにかかって「クソッ」と口から漏れ出る。

思い出してもイライラする。そもそも葉山のあのおちゃらけた「真下さんならいけるでしょ〜?」という一言。あれがよくなかった。どうせならキレてやれば良かったと思うけれど、社会人としてよく躾けられた俺の身体は反射的に葉山と同じ温度で笑って、zoomを切った。

若い頃に直したはずの貧乏ゆすりで机がカタカタと音を立て、使い古して動きが悪くなりはじめたマウスの動作がさらに緩慢になる。筋肉痛の原因はそれらしかった。

ゆりが仕事へ出たあと、部屋の中には大人一人分の朝食と四歳の娘が残されていた。お得意の目玉焼きにソーセージ、表面が固くなっただけのトースト。イライラには甘いものだと思ってジャムを取り出したが反面も塗れないほどしか残っていなかった。

仕方なくマーガリンを塗った上に目玉焼きを載せてパクつきながら、居間でつまらなそうにブロック遊びをするゆいかを眺める。実際は楽しくやっているのかもしれないが、俺の気持ちと世の中の状況がフィルターになってどうしても元気がないように見えてしまう。

原因はわかっている。長引く自粛期間の疲れだ。

間接的でも医療関係の職に就いているゆりは残業が増え、ゆいかは嬉々として行っていた保育園が休園。たまの休日には外出もできない。

仕方のないことと言い聞かせたところで、頭と体は裏腹だ。少しでも外の空気をと肺が訴えかけてくる。

とうの俺はというと、もとから在宅ワーカーだったので直接的な影響は少ない方。だが平常運転かと聞かれればとても頷く気にはなれない。

「外に出なくて良いんですから、仕事も捗るでしょ?」と冗談交じりに画面でにやけ顔を晒してくる仕事相手の葉山の背景は自宅で、画面の右側に設置された小さな机にはコーヒーカップと小皿に綺麗に盛られたお茶菓子が乗っていた。優雅なことで。

実際のところ仕事は捗るどころか遅れの一途をたどっていた。普段は五時まで預かってもらうはずの娘が一日中家にいて、夕方には帰ってくるはずの妻が残業続き。家のことも娘の世話も、溜まっていく仕事も片付けなければならない状況のどこが「捗る」というのだろう。



午前中は朝食の片付けと娘の遊び相手、メールの返信や書類の確認など軽めの仕事を片付けた頃に終わっていた。進捗の悪さは火を見るより明らかだがここ数週間はずっとこんな感じだ。

昼食はゆいかに焼きそばを作ってやると、まだ慣れない箸でもそもそと食べている。この間に自分の分をかきこんで、夕食の仕込みをしてしまうことにした。

体の中にモヤが溜まっているときは煮込み料理がいい。たくさんの野菜を切って塊肉をぐさぐさとさばいていくのが気持ちよく、無になれそうなレシピ。

キッチンの戸棚を開くと買い置きのビーフシチューの素があった。妻も娘も大好物、今日はこれにサラダでも添えてやれば完璧だろう。

人参に玉ねぎにジャガイモを大きめにカットし、牛肉も崩れることを考えて少し大きめの角切りにする。ごろごろした食材たちを見るだけですでに満足感がこみ上げてきた。在宅ワーカーの特権の一つ、仕事中に煮込み料理ができあがっているからくりの出来上がりだ。

肉も野菜も軽く炒めてから圧力鍋の中に放り込む。水と赤ワイン少量を入れ、蓋をして火にかければあとは大体鍋が勝手にやってくれる。残りの仕事は日の加減を見ながらビーフシチューの素を入れ、最後に味見をすればいい。

久しぶりに感じる達成感らしきものに少し高揚する。最近は仕事にも身が入らなくてギリギリのラインを歩いてばかりだったから、ろくに自分の成果を振り返る暇さえなかった。ひとつ終わればまた次へ、それが終わればまた次へ。

「パパー、食べ終わったー」

ゆいかが白い皿と子供用の箸をにぎってキッチンに顔を出した。美味しかったかと聞こうと思ったが、皿の上には細く切ったオレンジ色のものが乗っかっていた。

「ゆいか、またにんじんが残ってるぞ」

「にんじんきらーい。パパどうして入れちゃったの?」

食べ残しを叱ろうと思ったら、先手を打ってゆいかが頬を膨らまして訴えてくる。やきそばやチャーハンなど簡単な昼食が多いこの頃、ゆいかの口癖は「にんじん入れないでね」になりつつあった。

「でもな、にんじんも食べてみたら美味しいんだぞ」

「食べてみたよ! でもおいしくなかったもん」

ぷいっとそっぽを向いて居間へ帰ってしまった。キッチンから様子を伺うと、午前中に作っていたブロックのお城の建設を再開したようだった。

こんなやり取りを毎日していたのだと思うとゆりには頭が下がる。しかし家事と仕事に追われていると日頃の感謝を伝えようという気持ちが泡のように消え、残業帰りの疲れた顔が憎らしくさえなる。

誰も悪くないことはわかっている。しかしこのイライラはどう消化したら良いのだろう。



午後は圧力鍋がシューシュー音を立てるのを聞きながら、本腰を入れて仕事に取り掛かった。

途中でコーヒーを入れに机を立つと、ブロック遊びに飽きてしまったゆいかがカーペットの上で昼寝をしていた。

寝顔は天使のように可愛いが、起きてきたら怪獣のようにまとまりかけた集中力を破壊しにくる。この間に終わらせなくては。

そう思ってそろりとコーヒーを入れ終わった頃にゆいかが起きてしまった。まだ眠たそうな目を擦って「ぱぱぁ、今日お散歩は?」と俺を探している。

確かに今日はまだ一度も外へ出ていない。熱々に入れたホットコーヒーを諦めて「ご飯の様子だけ見るからちょっと待ってて」と肩を落とした。

火を止めて圧力の抜けた鍋の蓋をとっておたまでガシガシとかき混ぜる。今日終わらせるはずだった仕事を指折り数えながら、自分に残された時間を計算する。どうやっても合わない。自宅にいながら残業なんて、全然笑えない。



そわそわ待っていたゆいかを連れて近くの公園へ出ると、同じようなら親子連れが数組散らばって遊んでいた。ソーシャルディスタンスを意識しながら我が子とコミュニケーション。

「ねぇ、パパもおすなでおしろ作ろうよ」

ゆいかが砂場まで繋いだ右手を引っ張っていく。パパはベンチで昼寝したいなぁなんて言えるはずもない。

バケツに水をくんでくると言ったゆいかを見守りながら周囲を眺めると、どの子供の親も少し疲れた顔をしている。愛する我が子は可愛いものの、普段とはかけ離れた生活に疲弊の色が見える。きっと俺もそうだ。

戻ってきたゆいかと一緒に砂のお城を作る。俺はもっぱらスコップでゆいかの足元に砂を運ぶ係。それでも嬉しそうにキャッキャと遊んでくれるのでこちらも安心する。

完成した頃にはすでに1時間が経過していた。30分くらいのお出かけの予定時間が倍になっている。子供といると色々な意味で時間を忘れるから怖い。

「ゆいか、楽しかったか?」

「うん、楽しかったよ!」

その言葉が聞ければ十分だと思いながらも、頭の片隅には〆切の日付がくるくる回っている。

「パパは? 楽しかった?」

「そうだなぁ、パパも楽しかったよ」

嘘じゃない。楽しかったのは本当だ。でもそれだけでは済まされないことが大人にはあるんだよって、わかるようになるのはいつだろう。

そんな気持ちを知ってか知らずか、ゆいかは満面の笑みで繋いだ右手をギュッと掴んだ。

「よかったぁ、パパが元気になった!」

そのあとはすぐに手を離してスキップまじりに走り出す。まさか俺のために、なんてどっちともとれない言葉に感動を覚えながらも背筋を伸ばして思い直す。

こんな時代だ。ゆいかにも仕事にも、手は抜けない。


✳︎


「ただいまー。遅くなっちゃってごめんね」

ゆりが帰ってきてはっと気づく。時刻は8時過ぎ。我が家の通常の夕飯の時間は7時だぞ、と腹がぐるりと音を立てて主張した。

「あれ、ご飯待っててくれたの?」

「そうだよーお腹ペコペコ!」

居間でテレビを見ていたゆいかが答える。そうだったのか、ごめんな。

散歩から帰ってPCをチェックすると葉山から連絡が入っていた。相変わらず優雅な休日を満喫した背景と憎らしい軽口に「〆切、明日ですけど大丈夫ですか?」と一番聞きたくない言葉まで届いてくる。

我が子の優しさにじんときた心が吹っ飛んでしまった。顔を引きつらせて「大丈夫です」と言ったささやかな抵抗に、きっと彼は気がついていないだろう。

「いい匂い! もしかしてビーフシチュー?」

「あぁ、煮込んだだけだけど」

フンフン鼻を鳴らしながらキッチンに入っていくゆりが圧力鍋に入ったビーフシチューを温める。しまった、サラダを作るのを忘れていた。

俺は慌てて冷蔵庫からレタスを取り出そうとしたがーーーー、ない。そうだ、先日の夕飯に使い切ってしまっていたのだ。そしてご飯を炊くのも忘れている。何もかもが後手後手だ。

さらに追い討ちをかけるようにゆりが言った。

「だいぶ煮込んだねぇ」

えっ、と思って湯気が立ち始めた圧力鍋の中を覗き込む。ぐるりと混ぜてみるが手応えが薄い。固形物が感じられなかった。

「…ごめん、煮込みすぎた」

大量に切って入れた野菜がドロドロに溶けて原型をなくしている。果てはお肉さえも、混ぜるごとにボロボロと繊維状のものが出てきて塊とは言いづらかった。

やりすぎた。確かにきちんと時間をはかっていなかったし、ゆいかと散歩に行く前にガシガシと乱暴にかき混ぜた。そのせいでまるで具なしのビーフシチューになってしまったらしい。

何もかもうまくいかない。仕事は終わらないし、ゆいかには心配をかけた、夕飯もろくに用意できていない。全部何かのせいにしたかったけど、全部自分のせいにしかできなくて縮こまりたくなる。圧力をかけすぎた鍋の中でぺしゃんこになった自分がどろどろと溶けていく。

小さくなくなりすぎた人参、玉ねぎ、ジャガイモ。そしてお肉。指折り数えてみると今日終わらせた仕事よりも多い気がした。

「そんなに落ち込まなくても大丈夫だって。ほら、今朝の残りの食パンあったでしょ?」

妻が3枚残った食パンと深めの皿を取り出して「ゆいか~食パンちぎる?」と楽しそうに居間へ出ていった。ふたりが歌う童謡を聞きながら何がはじまったのかと様子を伺っていると、大きめにカットされた食パンの欠片が戻ってきて妻がそこに具なしビーフシチューをかける。

「あなた、とろけるチーズ出して」

さすがの俺にも何が出来上がるのかわかった。耐熱皿に乗った食パン、ビーフシチュー、とろけるチーズ。オーブンで焦げ目がつくまで焼くとうまそうな匂いにつられてテレビを見ていたゆいかまでキッチンに顔を出す。

小さなゆいかを持ち上げてやって、ゆりと三人でオーブンの中を覗き込む。オレンジ色の光が三人分の皿の上に乗ったチーズをぐつぐつと熱するのをじっと眺めていた。

「パパ、にんじん入れないでくれたの!」

ゆいかが嬉しそうに俺の首に巻き付く。妻と顔を見合わせて笑ってしまった。

「ね、大丈夫だったでしょ」

「うん、大丈夫だった」

あつあつの皿をオーブンから取り出すと、うまそうな匂いが濃くなって部屋に充満する。疲れた顔からママの顔に戻って、ゆりは「早く食べよ」とにっこりしている。

本当に頭が下がる。

「ゆり、いつもありがとう」



翌日に葉山とZOOMをつなげてみると、小学校低学年くらいの男の子が戦隊モノのおもちゃを持って部屋を駆け回っていた。

「すみません。今日妻もいなくて、息子の面倒を見ないといけないもんで…」

相変わらずへらへらした顔だが、よくよく見ると少し疲れの色が見える。息子は可愛いがやり慣れないことは疲れる、そんな様子だった。

葉山が結婚していることも、子どもがいることも知らなかった。俺は彼に妻や子どものことを話したことがあっただろうか。

「あれ、もしかしてそちらも?」

「あ、はい、そうなんです」

お互い大変ですね、なんて言葉を交わしながら、久しぶりにのんきな世間話をした。圧力鍋がシューシューと音を立てるみたいな、ガス抜きのような午前中の風が心地よかった。

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七屋 糸
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