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【短編小説】圧力鍋の真実


 貧乏ゆすりで筋肉痛になると知っている人がどれだけいるだろう。

 いつも通り朝7時に目を覚ますが、体を起こそうとすると太ももとふくらはぎに激痛が走る。それは癇癪をおこしたときの娘のように手がつけられないタイプの痛みで、中途半端な態勢に腹筋が先に負けた。

 妻のゆりが「あなた、朝ごはんー」と呼ぶのにも応えられないまま、足の違和感の正体を探る。昨日は気持ちよく晴れた秋の一日だった。

 自宅でPCに向かっていた。フリーランスになってから急拵えでリビングにあつらえたスペースだが、居心地は悪くない。そこで先日こなした仕事を指折り数える。一番のお得意さんへの納品依頼、知り合いから頼まれたピンチヒッター、連載しているコラムの執筆、新しい仕事のためのライティング。

 なるほど。外出は愚か、ほんの少しの買い出しや散歩にすら出ていない。誰に向けるでもない罪悪感がひしひしと思い出される。「気持ちよく晴れた秋の一日」というのは朝のニュースでキャスターが言っていた台詞そのままだった。

 いや、一度だけ外へ出た。ベランダに出て、一本だけタバコを吸った。気分転換のために手を出したのに、ぼーっとしていたら落とした灰がスエットにかかって「くそっ」と声が出た。それをたまたま洗濯物を取り込みに出てきた隣の奥さんに目撃され、お互いにぎこちない愛想笑い。ご近所付き合いは大事だ。

 そもそも葉山のあのおちゃらけた「真下さんならいけるでしょ〜?」という一言。あれがよくなかった。おそらく俺と同い年くらいの、三十代半ばの取引先の男の顔が浮かぶ。どうせならキレてやればよかったと考えるが、社会人としてよく躾けられた身体は反射的に葉山と同じ温度で笑って、zoomを切った。

 膝の動きに合わせて机がカタカタ揺れ、動きの悪くなりはじめたマウスの動作がさらに緩慢になる。若い頃に直したはずの貧乏ゆすり。筋肉痛の原因はそれらしかった。


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 ゆりが仕事へ出たあと、リビングには大人一人分の朝食と四歳の娘が残されていた。お得意の目玉焼きにソーセージ、表面が固くなっただけのトースト。イライラには甘いものだと思ってジャムを取り出したが、反面も塗れないほどしか残っていなかった。

 仕方なくマーガリンを塗った上に目玉焼きを乗せてパクつきながら、居間でつまらなそうにブロック遊びをするゆいかを眺める。実際は楽しくやっているのかもしれないが、俺の気持ちと世の中の状況がフィルターになってどうしても元気がないように見えてしまう。

 原因はわかっている。長引く自粛疲れだ。

 間接的とはいえ医療関係の職に就いているゆりは残業が増え、ゆいかは嬉々として通っていた保育園が休園。たまの休日には外出もできない。

 仕方のないことと言い聞かせたところで、頭と体は裏腹だ。少しでも外の空気をと肺が訴えかけてくる。

 もとから在宅ワーカーだった俺は直接的な影響は少ない。だが平常運転かと聞かれればとても頷く気にはなれない。「他所と比べれば」という枕詞はどこまでもついてくる。

 「外に出なくていいんですから、仕事も捗るでしょ?」と冗談交じりににやけ顔を晒してくる葉山の背景は自宅で、画面の右側に設置された小さな机にはコーヒーカップと小皿に綺麗に盛られたお茶菓子が乗っていた。優雅なことで。

 実際のところ、仕事は捗るどころか遅れの一途をたどっている。普段は五時まで預かってもらうはずの娘が一日中家にいて、夕方には帰ってくるはずの妻が残業続き。家のことも娘の世話も、溜まっていく仕事も片付けなければならない。この状況のどこが「捗る」のだろう。


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 午前中は朝食の片付けと娘の遊び相手、メールの返信や書類の確認など軽めの仕事を片付けた頃に終わっていた。進捗の悪さは火を見るより明らかだが、ここしばらくはずっとこんな感じだ。

 昼食はゆいかに焼きそばを作った。火傷しないように冷ましてから皿に盛ってやると、まだぎこちないフォーク遣いでもそもそと食べている。この間に自分の焼きそばをかき込んで、夕食の仕込みまでしてしまうことにした。

 体にモヤが溜まっているときは、煮込み料理がいい。たくさんの野菜を切って、塊肉をざくざくとさばいていく。なにも考えず、なににも囚われず、無になれそうなレシピ。

 キッチンの戸棚を開くと買い置きのビーフシチューの素があった。妻も娘も大好物。今夜はこれにサラダでも添えてやれば完璧だろう。

 人参に玉ねぎにジャガイモを大きめにカットし、牛肉も崩れることを考えて少し大きめの角切りにする。ごろごろした食材たちを見るだけですでに満足感がこみ上げてきた。仕事中に煮込み料理ができあがっているからくりは、在宅ワーカーの特権のひとつだ。

 肉と野菜を軽く炒めてから圧力鍋の中に放り込む。水と赤ワイン少量を入れ、蓋をして火にかければあとは大体鍋が勝手にやってくれる。残りの仕事は時々様子を見ながらビーフシチューの素を入れ、最後に味見をすればいいだけ。

 久しぶりに感じる達成感らしきものにわずかに高揚する。最近はまとまった時間が取れないせいか仕事にも身が入らず、締切とチキンレースをしているようなものだった。ろくに自分の成果を振り返る暇さえない。ひとつ終わればまた次へ、それが終わればまた次へ。ありがたいことに終わりなどない。

「パパー、食べ終わったー」

 ゆいかが白い皿と子供用のフォークをにぎってキッチンに顔を出した。美味しかったかと聞こうと思ったが、皿の上には細く切ったオレンジ色が束になって乗っかっていた。

「ゆいか、またにんじんが残ってるぞ」

「にんじんきらーい。パパどうして入れちゃったの?」

 食べ残しを叱ろうすると、先手を打ったゆいかが頬を膨らまして訴えてくる。やきそばやチャーハンなど簡単な昼食が多いこの頃、ゆいかの口癖は「にんじん入れないでね」になりつつあった。

「でもな、にんじんだって食べてみたら美味しいんだぞ」

「食べてみたよ! でもおいしくなかったもん」

 ぷいっとそっぽを向いてリビングへ帰ってしまった。キッチンから様子を伺うと、午前中に作っていたブロックのお城の建設を再開したようだった。

 こんなやりとりを日々していたのだと思うとゆりには頭が下がる。しかし家事と仕事に追われていると日頃の感謝を伝えようという気持ちがひとつひとつデリートされ、残業帰りの疲れた顔が憎らしくさえなる。

 誰も悪くないことはわかっているのに。


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 午後は圧力鍋がシューシューと悲鳴をあげるのを聞きながら、本腰を入れて仕事に取りかかった。

 途中でコーヒーを入れに机を立つと、ブロック遊びに飽きてしまったゆいかがカーペットの上で昼寝をしていた。寝顔は天使のように可愛いが、起きると怪獣のようにあちこち駆け回り、集中力を破壊しにくる。

 一段落ついた頃に何杯目かのコーヒーを入れにいくと、ゆいかが起きていた。まだ眠たそうな目を擦って「ぱぱぁ、今日お散歩は?」と俺を探している。

 確かに今日もまだ一度も外へ出ていない。熱々のブラックコーヒーを諦めて「ごはんの様子だけ見るからちょっと待ってて」と肩をすくめた。

 火を止め、圧力の抜けた鍋の蓋をとる。野菜の優しい香りに包まれたのも束の間、急に葉山の顔が頭に浮かび、腹いせにおたまでガシガシと鍋をかき混ぜた。今日中に終わらせなければいけない仕事と、残された時間を計算する。どうやっても合わない。自宅にいながら残業なんて冗談じゃない。

 そわそわ待っていたゆいかを連れて近くの公園へ出ると、親子連れが数組散らばって遊んでいた。ソーシャルディスタンスを意識しながら我が子とコミュニケーション。みんな見えないものを一番に恐れている。

「ねぇ、パパもおすなでお城しようよ」

 ゆいかがつないだ右手を砂場まで引っ張っていく。パパはベンチで昼寝したいなぁ、足も腰も痛いし、なんて言えるはずもない。

 バケツに水をくんでくると言ったゆいかを見守りながら周囲を眺めると、どの子どもの親も少し疲れた顔をしている。愛する我が子は可愛いものの、普段とはかけ離れた生活に疲弊の色が見える。きっと俺もそうだ。

 戻ってきたゆいかと一緒に砂のお城を作る。俺はもっぱらスコップでゆいかの足元に砂を運ぶ係。それでも嬉しそうにキャッキャと遊んでくれるのでこちらも安心する。

 完成した頃にはすでに1時間が経過していた。30分くらいのお出かけの予定時間が倍になっている。子供といると色々な意味で時間を忘れるから怖い。

「ゆいか、楽しかったか?」

「うん、楽しかったよ!」

 その言葉が聞ければ十分だと思いながらも、頭の片隅には〆切がくるくる回っている。

「パパは? 楽しかった?」

「そうだなぁ、パパも楽しかったよ」

 嘘じゃない。楽しかったのは本当だ。でもそれだけでは済まされないことが大人にはあるんだよって、わかるようになるのはいつだろう。

 そんな気持ちを知ってか知らずか、ゆいかは満面の笑みでつないだ右手をギュッと握った。

「よかったぁ、パパが元気になった!」

 言い終わらないうちに手を離してスキップまじりに走り出す。まさか俺のために、なんてどっちともとれない言葉に感動を覚えながらも背筋を伸ばして思い直す。

 こんな時代だ。ゆいかにも仕事にも、手は抜けない。


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「ただいまー。遅くなっちゃってごめんね」

 ゆりが帰ってきてはっとする。時刻は八時過ぎ。我が家の夕飯は七時だぞ、と腹がぐるりと音を立てて主張した。

「あれ、ご飯待っててくれたの?」

「そうだよーお腹ペコペコ!」

 リビングでテレビを見ていたゆいかが答える。そうだったのか、ごめんな。

 散歩から帰ってPCをチェックすると葉山から連絡が入っていた。憎らしい軽口が優雅な背景付きで再生される。「〆切、明日ですけど大丈夫ですか?」と、今一番聞きたくない言葉。

 我が子の優しさにじんときた気持ちが吹っ飛んだ。顔を引きつらせて「大丈夫です」と送ったささやかな抵抗に、きっと彼は気がついていないだろう。

「いい匂い! もしかしてビーフシチュー?」

「あぁ、煮込んだだけだけど」

 フンフンと鼻を鳴らしながらキッチンに入っていくゆりが圧力鍋を温める。しまった、サラダを作るのを忘れていた。

 俺は慌てて冷蔵庫からレタスを取り出そうとした、が、ない。そうだ、先日の夕飯に使い切ってしまっていたのだ。ご飯を炊くのも忘れている。何もかも後手後手だ。

 さらに追い討ちをかけるようにゆりが言った。

「だいぶ煮込んだねぇ」

 えっ、と思って湯気が立ち始めた圧力鍋の中を覗き込む。ぐるりとかき混ぜてみるが手応えが薄い。固形物の気配が感じられなかった。

「…ごめん、煮込みすぎた」

 大量に切って入れた野菜がドロドロに溶けて原型をなくしている。果ては肉さえも、混ぜるごとにボロボロと繊維状のものが出てきて塊とは言いづらい。

 やりすぎた。きちんと時間をはかっていなかったし、ゆいかと散歩に行く前にガシガシと乱暴にかき混ぜた。そのせいで具なしのビーフシチューになってしまった。

 何もかもうまくいかない。仕事は終わらないし、ゆいかには心配をかけた、夕飯もろくに用意できていない。全部誰かのせいにしたかったけど、全部自分のせいでしかなくて縮こまりたくなる。圧力をかけすぎた鍋の中でぺしゃんこになった自分がどろどろと溶けていく。

 小さくなくなりすぎた人参、玉ねぎ、ジャガイモ。そして肉。指折り数えてみると今日終わらせた仕事よりも多い気がした。

「そんなに落ち込まなくても大丈夫だって。ほら、今朝の残りの食パン、あったでしょ?」

 ゆりが固くなった食パンと深めの皿を取り出して「ゆいか~食パンちぎる?」と楽しそうにリビングへ出ていった。ふたりが歌うチューリップを聞きながら様子を伺っていると、大きめにカットされたパンのかけらが戻ってきて、妻がそこに具なしビーフシチューをかける。

「あなた、とろけるチーズ出して」

 さすがの俺にも出来上がりがわかった。耐熱皿に乗った食パン、ビーフシチュー、とろけるチーズ。オーブンで焦げ目がつくまで焼くと、うまそうな匂いにつられてテレビを見ていたゆいかもキッチンに顔を出す。

 小さなゆいかを持ち上げてやり、ゆりと三人でオーブンの中を覗き込む。「なーらんだー、なーらんだー」と妻と娘が歌う。俺はオレンジ色の光が皿の上に乗ったチーズをぐつぐつと熱するのをじっと眺めていた。

 焼き上がり、ゆいかが頬に手をあてて叫ぶ。

「パパ、にんじん入れないでくれたの!」

 ゆいかが嬉しそうに俺の首に巻きつく。妻と顔を見合わせて笑ってしまった。

「ね、大丈夫だったでしょ」

「うん、大丈夫だった」

 あつあつの皿をオーブンから取り出すと、うまそうな匂いが濃くなって部屋に充満する。疲れた顔からママの顔に戻って、ゆりは「早く食べよ」とにっこりしている。

本当に、頭が下がる。

「ゆり、いつもありがとう」

なぁに~と間延びした声が温かさを含み、食卓を彩っていた。


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 翌日、葉山とzoomをつなぐと、小学校低学年くらいの男の子が戦隊モノのおもちゃを持って葉山のうしろを横切った。言うか否か迷っていると、葉山が先に頭を下げる。

「すんません。今日妻もいなくて、息子の面倒を見ないといけないもんで…」

 相変わらずへらへらした顔だが、よく見ると少し疲れの色が滲んでいる。息子は可愛いがなんとやら、といった様子だった。

 葉山が結婚していることも、子どもがいることも知らなかった。俺は彼に妻や子どものことを話したことがあっただろうか。

「そちらもでしたか」

「あ、はい、そうなんです。え、真下さんも?」

 お互い大変ですね、なんて言葉を交わしながら、久しぶりにのんきな世間話をした。圧力鍋がシューシューと音を立てるみたいな、ガス抜きのような午前中の風が心地よかった。




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七屋 糸
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