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帰国して1年 ーPart1.帰国するまでー

 日本に帰国して1年が経ちました。この1年で新種の感染症に対してワクチンが開発され接種するところまで来てすごいなと思う一方、1年経ったのに未だ常に感染のリスクがあり1年前の状況とあまり変わっていないという気持ちもあります。

 流行り初めの頃に関して覚えていることといえば、中国で謎のウイルスによる感染が見つかり、2月にはクルーズ船内で感染が拡大。その後日本のどこかのジム内での大流行。グアテマラから日本のニュースを見ながら同じジムを使った人たちがどんどん感染し恐怖心を覚えましたが、その当時グアテマラは感染者ゼロだったので遠い異国の地で何やら大変なことが起こっているなあ、くらいの認識でした。

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 その後どんどん拡大し、アジア人差別の話もちらちら聞こえ始めました。私もちょうどその頃休暇を取りグアテマラ国内を観光していたのですが、アジア人だからか「コロナ、コロナ」と言われているのが聞こえました。グアテマラ人って聞こえるように言うんですよね。笑 道を歩いていても「チーナ、チーナ」と言われます。チーナはスペイン語で中国人女子という意味なのですが、グアテマラ人にとってはアジア人はみんな中国人なのです。笑 このチーノ(中国人男子)、チーナ問題に関しては中南米のどの隊員も遭遇する問題であり、この事だけで簡単に1記事書けてしまうのでここで詳しく伝えるのは辞めておきます。それにしても、道を歩いていて外国人がいるからといって普通「アメリカ人!アメリカ人!」とか言わないでしょう。それも聞こえるように。何でわざわざ聞こえるようにいうんでしょうね。笑

 話は戻り、グアテマラは医療が脆弱であることを加味し早々に経済より感染対策に力を入れ、空港や国境からの出入国をはじめ、あらゆる移動を制限しました。私の配属先は病院だったためすぐに活動休止し自宅待機するように言われました。そしてその数日後には慌ただしく帰国が決まりました。正直グアテマラにいる時はそれほど甚大な影響を及ぼしているとの認識はなく、1ヶ月程度日本に待機したのちゴールデンウイーク頃には戻れるだろうと思っていました。帰国時、スーツケース1つのみ持ち帰ることができたのですが、すぐに戻ってくることを疑ってやまなかった私がスーツケースに入れたのは、貴重品と日本食を持って返ってくる用の空のバッグパックでした。笑 これほど長い期間戻れないと知っていたらもっと必要なもの持って帰ってきたのにな。部屋は片付けておらずそのまま、グアテマラにはまだ大量に私の荷物が残っています。帰国1週間前に首都でキッコーマンのお醤油4本とニベアのボディーソープ6個買い溜めしたのにな、、、笑

 帰国の前日、病院に挨拶に行ったら「挨拶のキスとハグは禁止になったの」と同僚に言われました。最初は違和感があった挨拶のキスとハグ。毎日誰かに会うたびにそうしているとだんだん心地よくなってくるんですよね。ただお辞儀したり、握手するだけじゃなく、ギューっとされるとなんだかすごく愛されているような気分になりました。そんな素敵な挨拶文化が禁止になりなんだかとても寂しい別れになりました。またいつか1年分のキスとハグをしよう。

 その後いつも外国人ボランティアを可愛がってくれるているグアテマラ人家族のお家にお別れに伺いました。いつものように淹れてくれた美味しいコーヒーを飲みながらパンを食べ、みんな「またね」と送り出してくれました。その後親友が2人お別れに訪問しに来てくれ、私がいつも遊んでいた理学療法士のジョランダは彼女が着ていた民族衣装をジャケットに変えたものをプレゼントしてくれました。メッセージが素敵すぎて泣きました。笑

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 帰国の日。事務所のスタッフが迎えに来てくれることになっていたのでママとゆっくりランチを食べながら待っていました。本当にいつもいつも私のことを思ってくれたママ。美味しいご飯を毎日3食作ってくれ、「ちゃんと朝ごはん食べなさい」と叱ってくれ、洗濯や掃除をいつの何かしてくれていたりとお世話を焼いてくれ、どこに行くにも誘ってくれ、一緒にたくさんの時間を過ごし、たくさん話をし.... グアテマラに来て一番ラッキーだったことはこんな素敵な家にホームステイさせてもらったことだなと思います。昔からすごく人に恵まれているなといつも感じます。多分、神様は私に人が必要だということを知っていて、いつも与えてくれるんでしょうね。

 最後の日だからとママとママ手作りのナチョスを食べながらテキーラを飲むことになったのですが、このことが後に私を苦しめることになるのです。笑

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 別れの時、ママは案の定泣いていました。失恋した時も強盗にあった時もいつも一緒に泣いてくれたママ。ママに「1ヶ月で帰ってくるから泣かないで〜」と、その時は本当にそう思っていたのでそう言ったのだけれど、こんなにもグアテマラに戻れないとあの時知っていたらママにもっと感謝の言葉を伝えたのになーとか、もっと長くハグしておいたらなーなどと思ってしまいます。

 車に乗り首都に向かったのですが、私が忘れていたのはその道が舗装されていないかつ山道だということ。最後だからとママとテキーラのボトルを2人で空けるほど飲んだため気持ち悪くなり、とても辛い4時間となりました。途中までテキーラを飲んだ事を忘れており、”どんなに道が悪くても映画を見たり本を読んだりできるくらい三半規管強いはずなのに何で今日は車酔いするんだろうと“真剣に考えていましたが、それは紛れもなくあのテキーラのせいです。正しくは、車酔いではなく酒酔いです!!笑

 夜に首都に到着し、その日は隊員連絡所に泊まり翌日の早朝グアテマラを出発し日本へ帰国となりました。バスで首都からグアテマラとメキシコの国境に向かい、国境の街からメキシコの首都に飛行機で飛び、メキシコからアメリカのダラスに飛び、ダラスから日本へと、2-3日かかり到着しました。その頃のグアテマラといえば、感染者はそれほど多くはなかったものの、コロナ疑いの人は隔離施設に入れられることになっており、その隔離施設は訪問も禁止環境も良くないという状況だったので帰国できてよかったと思います。異国の地で一人、スペイン語も分からない中隔離される恐怖は言うまでもないでしょう。

 JICAの事務所の方をはじめ、大使館の方、グアテマラ政府、警察の方と様々な方々のお陰で無事帰国でき本当に感謝しています。

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