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本日の公演|オペラ、その賑やかしたち|後編
当記事は、前編からの続きでございます。
🎻一幕二場|酔漢どもにご注意を
それから三十分程も経ちますと、私たちはもう、度し難い酔いどれの連中でございます。
幕袖の陰から手を伸ばせばうっかり届いてしまいそうな距離に言葉を交わし、呵呵大笑している歌手のお二方によって、公演が滞りなく進行してゆく、その目の当たりの光景が、先ほどまでとは打って変わって、舞台の内外を隔てる無限の壁の神秘へのくすぐったいような驚きとともに眺められます。
手前には、ガラス張りの小部屋がございまして、中にはいかにも熟練のスタッフの女性の方が、公演の様子を映している複数のモニターに素早く目をやりながら、机からつくしのように伸び上がったマイクを介して、大道具係や出演者の方々にキビキビと指示を飛ばします。
かく言う私どもも、彼女の呼び声を聞きつけてわらわらと再び集まって、現在、忙しなく屈伸運動を繰り返し、次なる出番に備えておるところなのでした。
何せ酔っ払いのすることでございますから、やることなすこと、豪放磊落に、とにかく迫力がなくってはいけません。
舞台に打ち上がった野太い歓声をきっかけに、私どもは蹣跚として、されど力強い足取りで、オーケストラピットの頭上へ張り出した部分、つまりは客席に一等近い場所を通って、そこに設けられた手摺りへと勢い余ってぶつかったり、もたれ掛かったりなどしながら、どやどやと舞台に開業しておる酒場のカウンターへと雪崩れ込むのでした。
そこでは実際に透き通った液体(水)の入った縁の分厚いグラスを、バーテンダーより受け取ることができるのですが、例年に反して、それらには幾重にも透明なテープが巻きつけてございました。
これにもお慰みのいわくがございまして、つい先週のことです、舞台にて行われたリハーサルにおいて、同じように酒杯を片手に宴会を楽しんでおった同胞二人が、気分の昂るままにグラスをかち合わせたその瞬間。音、硬直、血。
という具合でございました。追って中断、掃除と治療が続きましたことは、わざわざお伝えするまでもありますまい。なお怪我人は幸い、指の間を擦りむいた程度の軽傷でございました。
すでに数年間働いている私にとりましても、何分初めて遭遇した事故でしたので、次回のリハーサルに際してすでに抜かりなく対策が取られているのを発見すると、同一の演目の果てしなく思われるような繰り返しの中にも、このような失敗と改善の蓄積が働いていることを実感して、妙に深い感慨を覚えたものでした。
ちなみに、当のカウンターはと言いますと、つい先ほどまで私どものいた下手の幕袖から突き出すかたちとなっており、そこへ今のように大勢詰めかけますと、どうかすると身体が押し出されて半身が陰になる、すなわち観客の視線と照明の光線とから守られていた元の場所へと、ぐるりと一周回って帰ってきたことになるのですが、それにもかかわらず、一度境界を踏み越えてしまった私はもはや、その懐にぬくぬくと留まっているわけには参りません。
次第に高まって参ります音楽に合わせ、覚悟を決めて手元の酒をぐいと呷ると、歌手の放歌高吟を満身に浴びます。
飛んだり跳ねたり回ったり、最初の群舞とは異なる個人的な技巧をひとしきり披露した後、乱れた呼吸も衣装もそのままに、拍手を受けてさらに酔いが回ったかのごと、もつれ合いながら上手の袖へとはけてゆきます。
誰かが酒を溢したようで、前を行く朋輩の亜麻色の背が黒く湿っております。
廊下ですれ違いざま、恰幅の良い歌手の方にお褒めの言葉をいただきまして、こちらもすかさず謝辞を返します。
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🎻二幕一場|新婚夫婦に祝福を
普段は書き割りなどで仕切られている舞台の向こう側には、公演に関係のあるものからないものまで、種々様々の舞台装置を保管しておくための広々とした空間が横たわっておりますが、本公演にてはこれを開放し、もちろん雑多な物どもは脇へのけて隠しておくことで、背景の暗闇の中へどこまでも続くような奥行きを演出しております。
見覚えのある木造りの家々の角には、またしても黒いコートに身を包んだ男たちが、まさしく黒山の人だかりを作って、身を寄せ合うことで何とか陰に潜んでおります。そこへ私たちも合流いたします。
ところで、幕間には二十分の休憩がございましたが、その間の私どもは言うと、楽屋でnoteを書き継ぐなり、読書をするなり、思い思いの方法で休息をいたしましたが、おかげで今活力に溢れているのかと言えばそのようなこともなく、むしろ弛緩して重くなった身体を引きずってゆく馴染みの顔触れの表情は、やや疲労の影が落ちてどこか悄然としております。
しかしそうは申しましても、一同揃って、身体を動かすことを生業とする身、日々疲れることをこそ仕事としているようなものですから、これしきのことはほんの茶飯事、取り立てて問題にするほどのことでもございません。
開幕を告げる太鼓の響きに、本人たちは知ってか知らでか、徐々に生気づけられてゆく銘々の顔立ちが、そう物語っておるのでした。
鯉が集まって、ついには竜に昇華したものか、男たちは五人ほどからなる少数精鋭の楽隊を先頭に、長い列を組んで、舞台の最奥から客席へ向かってぞろぞろと行進してゆきます。
私たちはその後ろに着いて、全身が方向を転換し、舞台の縁を舐めるように迂回をする際には、悠然とその尾を揺らします。
やがて男たちが舞台の上手側を占領すると、次には女性の列が彼らの前を横切って、下手側の残りの空間に収まり、さあ、華燭の典の準備は整いました。
満を持して唱和が始まるのであります。
一方で、これら大勢の歌手たちのうちに混じっている私たちではありますが、当然ながら、調子外れの歌声を自信たっぷりに放り上げるなどして、折角の式を台無しにするわけにもいきますまい、山おろしを受け止める高原のススキのごとく揺れながら佇む周囲に合わせ、持て余し気味の体重を右に左に移し替えておるばかりであります。
歌が終わればもう、遠慮する必要はございません。
中央に向かい合っております新婚夫婦が、いかにも厳粛に契りを交わしましたのを皮切りに、祝祭の雰囲気が一気に、部屋に活けた百合の花の香りのように開きます。
そうして私たちの今日一番の見せ場であります、横一列に並んで一糸乱れずに行う印象的な踊りの後には、それまで男女を分かっていた境が、いつのまにやら取り払われ、両者入り乱れてのめくるめくほどの円舞が、一帯に風を巻き起こし、宴はいよいよ絶頂を迎えます。
式はこのように、定刻通りに進んで参ります。
青天霹靂、武器を担いだ不届き者どもの乱入もまた、その例外ではございません。
首魁らしき人物の合図を受けて、舞台は一転、同じ興奮の坩堝とは申しましても、血生臭い乱闘騒ぎへと様変わりいたしました。
私どもも女たちを背に、決死の思いで奮戦いたしますが、何しろこちらは徒手空拳、いくら柄に柔らかい棒状のクッションを継ぎ合わせた安全な代物に過ぎないとは申しましても、やはり凶悪な棍棒には違いありませんから、ついには敵に組み伏せられ、そこかしこを滅多打ちにされてしまいます。
三発の銃声。
か細い煙のようにたなびくすすり泣きだけを残して、あれだけ騒がしかった物皆の音を、綺麗さっぱり根こぎにしてしまいました。
無遠慮に覆い被さっておった野蛮な男どもが、大人しく戻っていきます。
どうやらようよう満足して引き上げてゆくようです。
私どもとしましても、このような場所に長居は無用とばかり、即座にお互いを助け起こしますと、惨敗と痛棒、その両方を喫したことで酷く疼く胸を庇いながら、各々が近くの幕袖から退場いたします。
それが陰に入るやいなや、まるで今までのことがすべて嘘だったかのごとく、全員がたちどころに回復し、支え合っていた二人組がそれぞれ自立して、ダンサーが歌手に、歌手がダンサーに笑いかけながら礼を述べ、解散してゆくのでした。
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🎻カーテンコール
舞台で使用したと思しき、ダブルの大きなベッドが幕袖によけられておるのを見て、カーテンコールのために呼び寄せられた私どもは、これ幸いとその身を投げ出し、長時間の公演のためにさすがに疲弊したらしい肢体を横たえます。そのまま薄目で、終幕へと至るまでの最後の演技を、暗がりから見守ります。
時刻はすでに、夜中の十時を回っておりますで、朝から働いておる彼らの、このようにだらしのない姿も、無理はないと申せましょう。
カーテンコールは、あたかもコメディ映画のエンドロールに使われますような、オーケストラの明朗快活な演奏とともに行われます。
私どもダンサーに始まって、ほかの歌手の方々、主要な役柄を演じたソリストたち、そして最後にオーケストラを代表する指揮者の方、という順番で次々と舞台に姿を現し、観客の皆様の拍手喝采にお辞儀で応えます。
一度は降りた緞帳が再び上がり、全員がいま一度頭を下げて、ご来場いただいた観客への感謝を表します、その光景を覆い隠すように直下する緞帳が、今度こそ断固たる意志を秘めた重々しさで床を目指し、就寝の際の目蓋のごとく閉じ切りますと、それまで行儀良く整列していた出演者たちは途端に算を乱して、帰りの支度をするべく、各々の楽屋を指して一目散に流れてゆくのでした。
目当てのトラムの時刻に間に合うためでしょうか、狭い通路で後ろからやけにせっつく濁流に押し流されて、私も自分の楽屋に着きますと、すみやかにメイクを落とし、手早く荷物をまとめて、寒空の下へと出てゆきます。
そしてそこには、さながら海流と海流が出会うところのように、三々五々に別れて帰宅する観客たちと劇場関係者とが渾然一体の渦潮を成しており、つい先ほどの祝祭の熱を彷彿させるような飛沫を上げて、本日の公演の掉尾を飾っておるのでした。
とはいえ、口をぽっかりと開けて感心している場合ではございません。
私はこれから、帰宅してシャワーを浴びると、すぐに夕食をしたためて、日付が変わる頃には寝床に入っていなければならないのでした。
何と言っても、明日は結婚式がございます。
我々は伝統を重んじる由緒正しい家柄の者どもでございますから、式はそれこそ典礼に則って厳粛に、それでいて華やかに行わねばなりません。
そうそう、宴たけなわには──。