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特急あずさに乗って、桜前線をちょっとだけ遡ることにした。
わたしは死ぬまでに、あと何冊の本を読むのだろう。
どうやらわたしは、いつか死ぬらしい。わたしは17歳で、2両編成のローカル線に揺られながら、膝の上の単行本に羅列された活字を眺めつつ、学校に向かっていた。ショックだな、と心の底のほうでつぶやきながら、余白が無駄に広いページを繰る。全然、ショックじゃなさそうだった。
つい先日までわたしの家に泊まりがけで遊びに来ていた、美しい女の子のことを思い出す。黄金色の長い髪を無造作に束ね、シンプルだが洗練された洋服に身を包み、おいしそうに食事を摂って、夜はひたすらぐうぐう眠っていたあの子。あんなふうに生命力にあふれた彼女も、いつか死ぬのだろうか。
死なないかもしれない。
大きくカーブする線路の上で列車はブレーキをかける。単行本をリュックサックにしまって前の車両の一番前のドアから下車する。カーブの途中にあって、列車と隙間のあるプラットホームめがけて、歩幅を大きく、着地。
普段ならたくさんの中高生で混雑する無人駅も、春休みの今日は数えられるくらいの人数しか下りない。駅を出ていく列車の風に煽られて、プラットホームの脇に植えられた桜の枝が揺れるのを見上げる。綻んだつぼみたち。遅れた春は、まだ始まったばかりらしい。
登場人物紹介
たかやまさん
金髪大食い美人。自宅は飛騨高山にあるが、ここ数年は東京で過ごす時間のほうが長い。スワローズと箱根そばのファン。モケーレ・ムベンベのフィギュアがほしくて探しているが、見つけられていない。
ささづかまとめ
書き手。山梨育ち。未だに微妙に背がのびている気がする。マリアージュ・フレールに紅茶を買いに行きたいと思っているが、思うだけでだいたい満足している。
本文です
八王子駅の4番線ホームに接近放送が流れる。特急あずさ1号、松本行き。E353系がむっつりとした顔で入線してくる。きい、とブレーキをわずかに鳴らして列車が停まると同時に、わたしのとなりに黄金色の髪をおさげにしたたかやまさんが立つ。その右手には駅のコンビニで買ったおにぎりやデザート、お菓子が詰めこまれたビニール袋が提げられている。
進行方向右側の座席につく。ホーム上の自販機で買ったばかりの紅茶のペットボトルの封を開けて一口飲む。すかすかの胃に温かな液体が流れていく。たかやまさんは和風ツナマヨのおにぎりをほおばり、わたしは四角く折り畳まれたチョコクレープを食べる。糖分が頭と身体にしみていくのが心地いい。
たかやまさんはおにぎりを瞬く間に2つたいらげ、フランスパンでできた分厚いハムサンドにも勢いよくかぶりつく。通路の反対側に座っているおじさまが、こちらの様子をちらちら窺ってくるのもしかたない。
2022年3月31日。今日はわたしもたかやまさんも休みなので、山梨にお花見に行く。
たかやまさんとはだいたい毎年お花見をしているが、普段は玉川上水や神田川沿いを歩くだけだったり、もしくは新宿御苑や外濠を散策するくらいで、お花見のために遠出したことはない。
しかし今年は、お花見をしないまま東京の桜は見頃を微妙に過ぎてしまった。散っていく桜もいいけれど、たかやまさんはどこでもいいので満開の桜を見に行きたいと言う。気軽に日帰りで行けて、東京より数日だけ春の訪れが遅い場所。そんな条件で検討するとわたしの地元、山梨はいかにもよさそうだ。
そこで山梨県の寒そうな桜の名所を検索してみると、北杜市(ほくとし)にある神代桜(じんだいざくら)という有名な桜の老木がヒットした。八ヶ岳や甲斐駒ヶ岳の麓なら気温も低く、見頃は確実に東京より遅いはずだ。おまけに周辺にはいくつも日帰り温泉があるらしく、帰り際に立ち寄るのもいいだろう。
神代桜。山梨で暮らしていた時期にその名前を聞いたことはあるが、行ったことはない。最近、木が傷んできているというニュースを聞いた。この機会を逃したら次の機会があるかどうかわからないので、行ってみることにした。
サンドイッチを食べ終え、今度はかりんとう饅頭をかじっているたかやまさんと、今日の行程を考える。神代桜はもちろんだが、せっかくなら周辺の観光もしたい。旧甲州街道にある宿場や、日帰り温泉を訪れる予定だが、どう巡るかは決まっていない。
その鍵を握るのは神代桜のある北杜市(ほくとし)の市民バスだ。コミュニティバスあるあるなのだが、北杜市民バスの運行形態は複雑である。
土地勘のない観光客にとってコミュニティバスを駆使した予定を立てるのはなかなか骨が折れる作業である。しかし自分たちのためにこのバスがあるわけではない。わたしたちはついでに乗せてもらっているのだ。文句を垂れるのはおかしい。
ふたりで話し合いながら行程を作り終えて、ふう、と一息ついたときには列車は勝沼ぶどう郷を通過しているところだった。この駅前の桜も甚六桜(じんろくざくら)という名前で有名なスポットで、ほぼ満開の様子だ。進行方向左側の座席からはカメラのシャッター音が響く。たしかにこの列車の座席を予約したとき、左側の座席の方が若干混み合っていた。列車は春霞にけぶる甲府盆地へ、左に弧を描きながら下っていく。
車内は暖かい。甲府までの間でふたりそろってうとうとする。甲府を出たタイミングで、寝過ごすわけにはいかないと荷物を持って、デッキで立っていることにした。
韮崎(にらさき)には8時36分に着いた。ホームに降りるとやはり東京より気温が低く、ゆるやかに風も吹いているが、穏やかな日差しと相まって心地いい。いかにもこれから桜を観るぞという空気だ。花粉症のわたしの鼻が途端にむずむずし始めたが、気にしないことにする。
韮崎の駅は築堤の上にある。駅舎に向かう地下道にはテレビアニメのスタンプラリーの開催予告のポスターがずらりと貼られている。ほかに貼るものがないのだな、と思って眺めていると、わたしの後ろを歩いていたたかやまさんが
「スーパーカブだ! 小熊ちゃんだ!」
と叫ぶ。地下道にたかやまさんのやわらかな声が反響した。
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ささづかまとめ
「こぐまちゃん?」
たかやまさん
「この子。地味で悪い子。スーパーカブ」
おかっぱ頭の女の子を指さして、たかやまさんが言った。小熊とは不思議な名前だが、物語の主人公らしい。
自動改札を通って駅前ロータリーに出る。
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まずは8時45分発の山梨交通の路線バスに乗る予定だが、バス停に長い列ができている。どういうことだろうかと思う。たしかに神代桜は名所ではあるけれど。
(続きます)