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「身近にすること」再考——脳神経伝達物質の観点を踏まえた検討

市ヶ谷法務店は「法を身近にすること」を掲げる研究活動です。そして、市ヶ谷法務店では「身近にすること」を「物理的距離と心理的距離の双方を縮めること」という、ある種の「量的な」定義を採用していました。しかし、最新の脳神経科学の研究成果によれば、どうもそういった単純な話ではないようなのです。現時点での結論を述べれば、「身近」というのは、特定の状況下で脳神経伝達物質のヒア&ナウ系が優位であることなのです。

私たちの脳内では、身体近傍空間 (peripersonal space) 身体外空間 (extrapersonal space) は「質的に」区別されています。字義的に物理的距離のアナロジーを用いた概念ですが、物理的距離とは関係がなく、結果として物理的距離が関与するに過ぎません。

身体近傍空間は自らここでいますぐ here & now に手に取って触れることができるような範囲を意味しますが、こうした領域は物理学的な時空間ではありません。脳神経伝達物質的にはセロトニンやオキシトシンの領野ですが、ここでは「ある(存在、実在)」を前提とした無意識的な領野だと考えておきましょう。ある時期の実在論では「操作可能性が対象の存在措定を支える(それを動かせればそれがそこにあるって言えるよね)」などと言ったりもしますが、脳内の身体近傍空間の話に該当します。当たり前のことを言っているように聞こえるかもしれませんが、以下のとおり、まったく当たり前ではないので要注意です。オブジェクト指向の世界を当たり前のことだと思い込んでしまう構造と同じです。むしろ身体近傍空間は神秘的な領野だと映ることのほうが多いでしょう。

これに対して、身体外空間は自ら手に触れることが不可能な範囲、つまり、「ない(非存在、非実在=虚構)」を前提とした無意識的な領野です。こちらも物理学的な時空間ではありません。「ない」ものはないので文字通り何もない=そこにおける思考さえもないはずなのですが、ないものを欲し、ないものをあるようにしようと算段を立てるのがこの領野です。それぞれ欲求ドーパミン(+)と制御ドーパミン(-)に該当し、ある種の弁証法的な競合関係にあります。自然界のヒトにとって「ない」、たとえば、「水がない」、「食糧がない」ということは直ちに生物学的な個体と集団の死を意味するため、ないものをあるものにしようとする必死の試みが脳内でアシストされ半自動化されたものだと思っておいていいと思います。このアシストの自動性が器質的・環境的要因で強力になってしまった人たちが天才や精神病者です。リアリティのある幻想イメージを見てしまう人たちですね。幻覚とか、幻聴とか、妄想とか。かつては精神自動症などと呼ばれたりした時期もありました。厳密には身体近傍空間に飛ぶまさにその一瞬が問題であり、この集団の概念をヒア&ナウ系に位置付けることも可能でしょう。逆に、こうした自動性が微弱又は皆無になってしまったケースもあるようですが、ここでは論じません。

注意点としては、半自動的に「ない」ものが「ある」ことにされているので、身体外空間は「ない」の領域であるにもかかわらず、私たちの意識においてはすべて「ある」に置き換わります。これが俗に「世界」と呼ばれているものです。私たちが通常「ない」と思うことは「-」が「ある」という脳内処理です。テーブルの上にパンダが乗っているとの期待(+)をしない限り、パンダがいないこと(-)を述べることができないわけです。この帰結として、身体近傍空間はあることを「ある」と表現する術を奪われるため、それを奪い取った身体外空間では逆転して身体近傍空間で純粋な「ある」だったものが純粋な「ない」と置き換わり、「+」や「-」が「ある」ことによって「あることがあることであること」が覆い隠されてしまい、本来の意味で「ある」ことがまるで理解できなくなり、話を混同してしまうのです。「あること」だけが「あること」を装うことができます。この話も理解できない人は永久に理解できないと思います。一見すると当たり前のことに思えますから。

以上、簡単に言えば、私たちの脳内では物理的距離や心理的距離の遠近という座標系をまるで採用しておらず、身体近傍空間(ある)と身体外空間(ない)とですぱっと質的に区別されており、そして、そのうち身体近傍空間は身体外空間に覆い隠されて極めて自覚しにくいということです(それゆえの「考えるな、感じろ」、「こころで見なくっちゃ物事は見えない」)。そして、それを言葉で表現した瞬間に身体外空間にはみ出て意識に滞留するので、身体近傍空間(たとえば、気配や徴候など)を表現する言葉も多義化する宿命を負います。詩はそのひとつの形態だと考えてよいでしょう。それゆえに言葉を誤解しないためには言葉の意味内容をそのまま追ってはいけない(ことがある)のです。この記事も実体論的に読むべきでないということを注記しておきます。言ってみれば「幸福の青いオブジェクト」ってところですかね。

図1 脳神経伝達物質的観点から見た概念空間把握の様態と概念分布

ということで、「身近にする」とは「身体外空間から身体近傍空間に移す」という話として受け取られるべきで、結局、某「存在論的転回」の言い方を変えただけのような気もしないではないのです。ああ、自虐も含めて再度念押ししておきますが、上図のヒア&ナウ系の言葉を使っている人がいてもヒア&ナウ系の意味だとは限らないので注意してください。欲求ドーパミン系が行動の起点ではあるのですが、問題はそこからヒア&ナウ系に移行せずに欲求ドーパミン系でぐるぐる旋回することですね。中毒症状なのですが。制御ドーパミン系をぶつけても理論化されるだけであり、「やめたいけどやめられない」、「わかってるけどやめられない」。私もそうなりがちなので、こわいんですけど。

ところで、「法」や「言論」は身体外空間から動かせず、これをプラクティスの領野に置くと「徳」に変じますね。つまり、原理的に「法」の実践というものは存在しないことになりますね。あれ、でも、リーガルモラリズムの排斥??……というのが、ここ数か月くらいの悩みであり、どうも分析と実装はレイヤーとして区別しないとダメらしいということがわかってきました。民主主義とは……。

(執筆者:平塚翔太)

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