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母親からほったらかされたという傷
おととしの年末、およそ25年ぶりに、日本に戻ってきた。そして両親との同居が始まった。物心がついてから、こんなに両親と時間を共にしたことは、ないかもしれない。これまで2年間、一番辛かったのは、母との関係だった。
以前記事にも書いたが、母親と私は合わない。というか、きっと私が合わせたくないのだ。
うちの母は、母性はあるにあるようだが、それを見せてこない人だった。幼い頃、母親との「楽しかった」と思える思い出はないし、ほったらかされたという感覚がある。きっと彼女は自分ができる範囲で子育てして、それ以上に愛情を注ぐ努力をしないタイプの人だ。
母は勉強のできる人だ。学生時代、数学は母に教えてもらっていた。解けない問題があると、「あんたは、こんなのもわからないの?」と随分とバカにされていた。だからか、母への感情はネガティブなものだ。
対して、父親には可愛がってもらった。仕事で疲れて帰ってきても遊んでくれた。それは頭の中に残っていて、父親のことは大好きだ。
もう昔のことなのに、いまだにその感情が、私の中で根強く残っていることに気づいた。「三つ子の魂なんとやら」ってことかな。
悪気はないのだろう母親の何気ない一言に、いちいちカチンとしてしまう。そして、気持ち悪い感情がしばらく残る。時には、幼い時の感情は吹き出しながら「怒り」の渦に巻き込まれることもある。
もちろん父親にも、カチンとくることは多々ある。
父親は昔風の人間。「父、夫の威厳」にしがみつく人。だから、自分の考えは曲げないし「これしろ。あれしろ。」と干渉や命令が多い。そんな父に瞬間カチッとくる。だが、父の場合、感情は引きずらない。
だって「お父さん」なんだから。
でも母に対しては、「お母さん」なんだからと思えたことがない。「なんでこの人に言われないといけないの」が先行する。
ところで、去年から、鎌倉にある禅寺の管長のYouTubeを拝聴している。お話を聞いていると不思議と心が落ち着く。それがきっかけで仏教や禅に関心を持った。以前から「瞑想」することが好きだったので(できてはいないが)、尚更興味をそそられた。
そのことが効を奏したのか、母に対する自分の感情を客観的に捉えることができるようになった。
ひょっとして私は、母との関係の中で、「この人にほったらかされた可哀そうな人」という悲劇の主人公を作り上げていたのかも。
母親は、戦争が終わる直前に生まれた人。母いわく「その当時、親にかまってもらったことなんかなかとよ。お腹すいたら、自分たちで作りよったしね。今の子はぜいたくよ。」この世代の方々の特徴だろうか。
そういう環境で育っているせいか、自分にも厳しい。今80代半ばだが、掃除、洗濯、皿洗いだけは、娘にさせず自分で全てやる。買い物や食事の準備など、自分にはキツイところだけお願いする。そこには感情のかけひきなどない。ストレートな性格だ。そこはとても有難いと感じる。おさないころの母の悪いとこだけが目についていた自分を少し反省。
家族や親子のカタチ。「愛情いっぱいの家庭」が普通だという、何か「型」みたいなものがあった。でも、考えてみたら、そんな家庭って実は珍しいケースかもしれないなんて思うようになった。「親が子を、子が親をあやめてしまう」こんなニュースが多々ある。
「とは言え」いまだに、母への鬱憤みたいな感情は晴れない。「無くしたい」とは思うが、無くせないんだからしょうがない。
こんな感情のループは、母との関係だけじゃない。「こんな状況になると、めげてしまう」とか逆に「ハイテンションになったり、焦ってしまう」というパターンがいくつもある。これも無くしてしまいたい。
今年は巳年。「ヘビみたいに脱皮して新しくなる。成長できる」そういう年になるというらしい。それなら私の心も、ヘビみたいに脱皮してくれないかなあ。
でも私は成長したかもしれない。前の私だったら、こんな風にさらけだすこともできなかった。今、こうやって、平常心で書けるということは、きっと脱皮したに違いない。それだけでも褒めてあげよう。