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「私という存在は、心と体とそれらと連続する環境によって創られている」

のタイトルは、チームラボの「生命とはなにか」のなかでの引用。
チームラボの作品は初めて見たけど、なかなか動きがあって楽しかった。そして何より、学芸員さんの解説が素晴らしかった。

人は身体的に認識して初めて体験できるというチームラボの考えは、森を歩く例えを経て、さらに納得できるものとなった。
森の中を歩くとき、例えば、先に本でどんな場所か、歴史や地理などを学ぶこと。それは準備に過ぎない。
実際に森を歩いた地面の感触、肌の温度や湿度、木々や土の香り、葉の擦れる音や鳥のさえずり、木漏れ日の光。体験というのは、身体的認識を経て初めて己のものとなる。

そしてもう一つ面白いと思ったのが、
生命の影響を与える酸素や二酸化炭素、熱など、いろんな流れを形にしたアート作品。
それは、生命が周りから得て、周りへ出してゆく循環により維持されるという現実をうつしており、また、そうした作品が生命の境界線というものが実は曖昧なものであるというのを示しているのも面白い。

また、蝶のアート作品が示していることも好きだ。
人は存在しているゆえにすでに物理的に世界に影響を与えており、我々の見ている世界はすでに自分が与え、奪い、同じく誰かの与え、奪っている世界の流れそのものであるということを象徴している。
蝶のアートは、手で壁をさわってじっとしていれば蝶が生まれ、そうして飛んでいる蝶を撫でれば羽を閉じて落ちていく、というものだ。
その、与え奪う流れを蝶という象徴で表現している。
そのアートは自分だけではなく他の来場者の数や行動により見せる姿を変える。
それはまさに、いまみえている世界が他者と己の影響の形そのものであると再認識させてくれる。
それが非常に面白かった。

私はすでに世界に影響を与えている。
そしてまた、他者が存在するゆえに描き出された世界の中を生きている。

そんな当たり前のこと。
でもだからこそ、アートは面白い。

また美術館に行きたい。
そして、そんな美しい世界に気づくきっかけを与えてくれる美術に触れるために必要な経済力をつけたい。

そう思う体験となった。

美味しいクラフトビールを飲んだときも、
美しいアートの考えに触れたときも、
私は再び仕事に対し前向きになる。
お金という経済基盤をもって定期的に美しい世界を味わいたいと願うのだ。

実は、仕事ではとても恐ろしい思いをした。
それは単に私がヘタレだからなのだが、けれどそれゆえに、同じ地獄に戻るのは怖い。
同じ地獄にはしたくない。
けど、それは果たして自分で決められるものだろうか?

まだ迷いはある。
でも、信じられないことに、私はあれだけ絶対にやらないと決めた仕事を再び選びたいと願ってしまっている。
絶対しんどいのに。
絶対苦しむのに。
計算できる?判断できる?あれもこれも一緒にできる?説明できる?覚えられる?勉強できる?電話できる?堂々とできる?コミュニケーションとれる?責任とれる?
できなくて苦しんで後悔するんじゃない?別の道を選ぶんじゃなかったの?格好つけてるだけじゃないか?

わからない。
こわい。
でも、こうなりたい、という姿は、やっぱりその仕事の先にあるように思うんだ。

変だよね。
それがいやだとやめたはずなのに。

人間関係だけじゃなくて、環境だけじゃなくて、仕事の責任の重さそのものがいやで逃げたはずなのに。
自分が生きるために逃げてきたはずなのに。

もう少し考えよう。
でも、心に余裕が出てくると、諦めたくないと思ってしまう、その事実も記録しておこう。
殊更、美しいものに触れたあとはそう感じることも記録しておこう。

この先を行くとき、道しるべになるかもしれないから。

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