隣の芝の主に訪ねた
サッカーを始めて15年目。
指導に携わって4年目。
地元の友達から時々言われる、「○○といえばサッカーだよね!」という言葉に、嬉しさよりも寂しさを強く感じていた。
好きなことを持ち続けている割に、「これしかないのか…」「これを放したら何も無くなるのか…」が強い傲慢な人間だと感じる。
10か月前に亡くなった兄が、「サッカーを仕事にしたら、逃げられなくなるから」とよく口にしていたことを思い出す。
サッカーを誰よりも愛していた兄は、サッカーの指導の時間をつくれる仕事を選んだ。
最近の自分の状態をわかり易く言うと
隣の芝が青く見える。見ている。
いや、隣の芝しか見ていない。
という状態だった。憧れ?いや、羨ましさだ。
14年やってきたサッカーを無視して、他のことを志している人を羨み、自分自身もがサッカーが嫌いなんじゃないか?と考えるようになっていた。
サッカーも人としても、基本的に自信が無い人間だから、他人が言う言葉に対して「そういう考えもいいですね。でも私はこう思う。」になかなかなれない。
「そうなのか。」「そうだよな…」になってしまうところが、単純過ぎて呆れる。疲れる。笑
例えば、「辛いなら辞めることも勇気だよ」と言ってくれる人と、「やり続けていれば変われるよ」と言ってくれる人がいて、簡単な反対の言葉に対しても、どちらの言葉にも感情が引っ張られる。「自分の答えはこれだ!」と胸を張って切り替えられる人は凄いなと思う。
でも多分、心のどこかで気付いている。
どっちも正解だし、どっちが悪いもない。
前の職場で出逢った上司がよく言っていた。
「誰かの意見を理由に何かを決断すると、出来ない時にも誰かのせいにしてしまうから、必ず自分の言葉で決めること。」
サッカーのピッチを見て、目をキラキラ輝かせた時の感情を、歳をとってもその素敵さを子供達に伝えたいと感じていた。ピッチを見た時の自分の感情が変わってしまった時、子供達に伝えられることはもう無いのかもと感じた。
熱量がもう無いんだな。人として尊敬してきた人みたいに自分はなれないんだな。サッカーも夢も、なくなったんだな。
…。
そう思いながら、サッカーの指導を続けた。子供達とふざけ合った。
体育を指導する教員の授業展開を見た。トレーニングの動画をみた。尊敬する人たちの言葉を聞いた。青く見える芝の主に話を聞いた。
…。
いや、そんなことないじゃん。笑
終わりでは無いな。
憧れは、憧れのままだったし、子供達との時間は確かに自然に笑っていたし、変わらずサッカーは難しくて楽しいし、ボール触っている瞬間の楽しさは15年変わっていないし。
理想が高いとか、現実と理想のギャップがあるとか、よく言われるけど、
「こんな人になりたい。」「ここに立ちたい。」
は、自分の最大の原動力だと思っている。
何者でもない自分を恨んだ。とにかく、何かになりたかった。憧れのあの人に。尊敬するあの職業に。あの場所に。
なったらいいじゃん。なりたいものに。
何者でもないから、何にでもなれそう。
そして、沢山書き留めよう。
私が手紙やメッセージや物語の最後に必ず書き足しておいておきたい言葉。
「――その後ずっと、笑顔溢れる日々が続いた。」
と、願いを込めていつか。
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