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目の前の命に私は プロ で在りたい

※当記事は過去の事件や震災について少々触れています。


「避難して静かになるまでに〇分かかりました。」
――教頭先生の声が響き渡る小学校のグラウンド
これが、記憶にある小学校での避難訓練。

私が子供に関わる仕事に就いて 5年。

どの職場でも 避難訓練 について上司と闘い続けている。

―――
24年前に起こった大阪府内の小学校での不審者児童殺傷事件。
該当小学校は その事件以降 年5回不審者対応の訓練を行っている。
その訓練の本気度が、自分が産まれて間もない頃に起こった事件にもかかわらず 強く記憶に残るほど目に止まるものだった。

子供の命を守る場所は、学校だけでなく 学童、習い事、公共施設等、多数ある。

そのうちの習い事の場として子供達のサッカーを指導していたり、学童の指導員として関わってきたなかで 私は何度も引っかかった。
「もし、此処でとんでもない不審者が現れたり、大地震が起こった時 何人の職員・スタッフが子供の命を守れるんだろう。」

学校では必須として行っている避難訓練も、
不審者や震災は学校にいる時間だけじゃなく
どんな場面でも起こりうるはずなのだから
学校だけやっているのは何かおかしくないかと思った。
報告書のためだけにやる
”避難訓練と呼ばれる震災のお話”も、
声をあげても
「実施できない。」
とまでいわれる指導の場も、
納得ができず 何度も声をあげ続けた。
大人数の子供を抱え、日々の業務を乗り切るのは大人の私達でも容易ではない。

だけど もしもの時、その目の前にある生命を躊躇わず守れるだろうか。と自分を含め、この職種に就く方々に疑問が湧いた。

自分がいる場所をみて、
このままでは 何か起きても 大人が足を竦んでしまうのではないのかと感じた。

子供は 学校、学童、習い事、地域そして家庭で
無自覚に多くの大人から守られている。
学校から学童、学童から習い事の指導員に引き渡す時には
――「お預かりします。」
――「お願いします。」
というようなやり取りをする。
そこには”責任を持って”という言葉が加えて込められていると私は勝手に思っている。



数多くある仕事の中で
迅速な判断をし多数の命を守る自衛隊とか救急救命士とか 自分の生活を徹底し訓練し続けるプロのスポーツ選手とか
身体も心も役に入り込み表現する役者とか
どんな絶望でも画面越しに笑顔をくれ吹き飛ばしてくれるお笑い芸人とか
大事なことを言葉にして音に乗せて表現するアーティストとか
私は どんな仕事にも その輝きやプロフェッショナルに心を奪われ 憧れる。

北海道の胆振東部地震の際、
私は高校三年生。
1年半前にこの世を去った兄は当時、サッカーの指導者兼、自衛隊だった。
夜中に地震が起こり、停電した直後
「出動してくるわ。」と家族に連絡があった。
高校生の妹から見る兄はものすごくカッコよくて誇りに思ったのをよく憶えている。
無事に帰ってきた時には現場の話を真剣な眼差しで話してくれた。

命にかかわる仕事ではなくても やっぱり 人を救うのは 人だから 私は尊敬する人達ばかりいる

それでも私が この 子供の命を守る という立場に就き続けているのは
無自覚に守られ続けている子供たちを 守り続けているはずが 時に その無自覚で 純粋で 尊いものにとんでもなく救われることがあるからなのかもしれない。


どんなにすごい指導力や経験を持った人も 偉い人も 真面目な人も  私は憧れない。
どんなに仕事ができなくても 子供に嫌われてても
いざという時に子供を抱えて命を守れる人がいたら 私はその意識と行動力だけでその人とずっと共に仕事をしたいと思う。

数多くある プロ意識がある仕事のなかで
人の命を守る立場人の心を動かす表現者 に強く憧れを抱いている。
その両者にもなれるこの職種が心からの誇りであり 私自身がなっているとしても 多分この先もその”プロ”に憧れ続ける。

どんなに願ったって救えなかった命が
この世界には悔しいほど多くあるのに
守れるはずの命を守れなかった なんてことがあっていいはずかない。

ここまでくると子供のための訓練ではないはずで誰のための誰の訓練なのか 私自身は
いざ、その時に
誰よりも速く動けるだろうか
っていうことをきちんと。ちゃんと。心に残したまま、日々の忙しさに追われていたい。

背伸びせず、謙虚さ、意識、忘れていないかー!と。
自分自身に。謙虚に。



――


「先生、身長何cm?」
「180にきまってる。」

――


謙虚さね。。

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