狐晴明九尾狩/感想
また見事に一ヶ月音沙汰のない。手に負えないやる気である。
どうもエンジンが掛かるのに一月必要なようで、もういつの間にか一ヶ月ほど前に見た、ゲキシネの狐晴明九尾狩を思い出しながらのんびり語ることにする。
とはいえ、一ヶ月も前のことであるので(メモもよく取ってなくて我ながらいっそ感心してしまう)、おおよそ記憶をなぞりながらになる。たいした感想にはならないけれど、一ヶ月たっても感想をしたためたくなるほどのゲキシネであったことは保証できるというものだ。
中盤にさしかかったあたりで晴明が声高に叫ぶ、「これは私と利風の知恵比べだ」という台詞が最後にスパイスのように効いてくる舞台であった。本当にこの舞台の安倍晴明は、最初から最後まで九尾の狐などは相手にしていなかったのだ、と我々は終盤に教えられる。
この男、九尾の狐のことなど、眼中にすらなかったのだと思う。全く馬鹿にしていると狐は憤って良いと思う。曰く、「利風の姿をしている以上、利風と同じ」なのだそうだ。
あの安倍晴明は、本気で九尾の狐を相手取って居なかった。だからこそ、最終盤に窮鼠猫を噛むのごとく噛まれるのだと思うが。
侮ったわけでもないのだ。ただ眼中になかっただけなのだ。そのしっぺ返しがいささか痛すぎるようには思えたが、何ごとも、一人勝ちの一辺倒じゃ面白くないのかもしれない。
蘆屋道満も良い味を出していた。京を追いやられた妖怪達を引き連れて、神戸の山奥に引きこもる。やいのやいのと陰陽師に文句を言うけれど、その実、妖怪達を何より大切に扱っていた。手を貸す理由も「悪戯ならうちの妖怪達にまかせろ」という、どんなに大それたことでも、彼や彼らにとっては「いたずら」の域を出ないところが粋だった。
大陸から渡ってきた怪狐の姉弟は、なんだかなんとも言えない立ち位置に押し込められて仕舞っていた。結局、――結局何だったのだろう。まあそういうのも愛嬌の一つなのかも知れない。もふもふはとても可愛かった。
結局いつもの愛やら恋やらの混ぜ込みどころがそこにしか無かったのかも知れない。毎度、愛が出てくるとなんだか肩透かしを食らってしまうのだ。
今回の舞台は今までよりなおさら善と悪の対比がめちゃくちゃで面白かった キャラクター造形では確実に「悪」なのに「善」に鞍替えしてくる右大臣が意外で面白かった。我々はなんだかんだと言動や中身より、風体を見て物語のキャラクタを判じているのだなあとしみじみする。
「急急如律令」とこんなに言う舞台は最初で最後だと主演の方がおっしゃっていた。見ている方もこんなに「急急如律令」を聞くことはないんじゃないか。アブラカタブラばりに連呼されるものだから、最後は何だか楽しくなってしまった。
私がゲキシネを初めて見たのはもう何年前だか忘れたけれど、「五右衛門ロックⅢ」が初めてだった。あの時、見終わった感想が「自分の人生が少なすぎる」だった。
別に、劇作家になりたいわけでも、劇に携わる仕事をしたいわけでもないのに、ただ趣味で見に行った、映画と舞台のいいとこ取りというゲキシネをみて、「自分の人生はもう足りない」と思ったのだ。
そのぐらい迫力があって、威力のある舞台だった。終盤の三浦春馬さん演じる役目のどアップが、今も忘れられないのである。
追い詰められた彼の背後からあたるスポットライト。煌々と照らされた背後と闇になる表情。伝う頬の汗が、あまりに素晴らしいタイミングで流れ落ちた。――もし自分が汗まで操れたら、絶対にあの瞬間あのタイミングで流させたろう、そんな神がかった一瞬を、見せてもらえたことは、ずっと宝物にしていきたいと思って居る。
話を大変そらしてしまったが、それ以来ゲキシネと聞けばいそいそと時間を作って見に行っている。今回も見に行くことができて幸いだった。彼のうたう「愛」はちょっと私にはわかりにくいけれど、あれはあれで一つの愛あふれる世界の一端なのだなと思えて、楽しい。