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沸騰からの凪、 言葉の爆発、 並べ替え

連日、煮えたぎる大鍋を底から大きく掻き混ぜるような動きが続いており「Instagram 更新しなくっちゃな〜」と思うのが精一杯で、撹拌されまくった言葉を掬い上げて綺麗に並べるのが困難ゆえ note に縋る。

具体を微細に並べることが不可能なくらい撹拌されちゃってるもんだから、ドン引きするほどの抽象さでしか言語化できないのだけれど、どんどん書いてしまいます。

10/13, 14 の 2 日間「ゆっくら」を開放していたのだけれど、裏側では猊鼻渓 100 周年企画等についても大きな意識の転換が起きており、かなりの葛藤や煩悶、掘り下げ、自問自答な時間でもあったのです。

そんな 2 日間がどうにかこうにか無事に終わって浴槽に浸かりながら気絶してしまうくらいには、安堵に胸を撫で下ろす内的変化が生じたのである。

そしたら、まぁ!
なんということでしょう!

これまでが例えるなら連休真っ只中の渋谷や新宿もしくは夏コミ冬コミなどのビッグサイトの大混雑であったならば、すべての生物が不在の深い深い山奥にある鏡面のような湖の畔にいるような凪状態に突入しまして。

実生活では、あれこれ起きてるんですよ。買い物行ったり、何かを見物に行ったり、飲食店へ行ったり、誰かに会ったり、話したりして、これらで感じられることにも大きな変化があったように思うのだけれど。

内面は、なんか、凪状態。
カームベルト的な。
無風。
空白というか。
エアポケットとか表現したりもするのだろうか。
まぁ、例えは何でもよろしい。

んー。
あー。
うー。
などと呻き声を漏らしながら数日過ごしたところへ『ローカル開業カレッジ』というオンラインセミナーの受講日がやってきて『リビルディングセンタージャパン』の東野さんのお話を聴いたら、さらに大きく揺さぶられる超刺激的だらけの大ボリュームで、ヒューズが何十個も飛んでしまった。

これはちょっと元に戻すの大変な状態だ、という認識はあったので読みかけだった漫画『違国日記』に手をだすことで、相殺できるんじゃないか、という直感めいたものがあり読み始めたら、もっとおかしなことになってしまい、意図せず抑えこんでいたものが爆発してしまったのだった。

さて、一体何を書いているのでしょうね?
自分でもよくわからないのだけれど。

6 月に協力隊に着任してからというもの、発してきた言葉の大半が『私は協力隊なのです!どうぞよろしくお願いします!』という成分でできていたように思うのです。

Instagram でコントロール不能になり 2,000 文字書くことも稀にありましたが、大半はお行儀よくツイートしていたように思います。

note を活用しようと思うも、いやいや業務報告っしょ、ここは、だって協力隊なんですから!といった気分が優勢で『業務報告以外の思考や嗜好』といったものは完全に抑えこんだ内容になっておりましたね。

しかし 4 ヶ月以上が経ったことで『協力隊』という箍で締めていた樽の中身が発酵しすぎて爆発しちゃった!

って感じなのかもしれないなぁ。
などと他人事のように眺めていたり、飛散した言葉を回収して並べて仕分けしているのが『今』なのかもしれない。

漫画『違国日記』は、とても好き。
さっき読んで、言語化したくなったことを書くと……。



人は、本当に、みんな違う。
『一般常識』とか『普通』とかってゆー『ルール』に準じているから理解し合えているように思っているだけ。

自分以外の外部の情報をインプットする。
何かを見る、聞く、嗅ぐ、触れる、味わう、感じる。
これだけでも全然違う。
驚くほど違う。
同じものを見ても、聞いても、触れても、食べても、感じても。
隣にいる人は、全然違った形のインプットが行われている。

取り込まれる情報量が、まず違う。
取り込む量だけでなく、解像度も違う。

その瞬間に行われる内部処理も違う。
ここが決定的に違う。
言語で思考する人もいれば、映像で思考する人もいるし、感覚で思考する人もいるし、人間の数だけ、80億通りある、ってくらい違うはず。
内部処理のスケールも違う。
広さ、深さ、細部、フォローされる領域なども違う。

そうして処理されたものの出方が違う。
アウトプットの仕方が違う。
質、量、解像度などなど、表現が違う。

ここに個性や語彙、感情、歩んできた人生、文化、風土、などなどが掛け算されて、天変地異くらいメチャクチャに異なってゆく。

おおよその類型に当てはめることが可能な事柄も多くあるにせよ『全部が違う』という認識が、たぶん正解で。

そんだけ違う中で、何かを為そうとすることが、どれだけとんでもないことなのかというと、宇宙開闢くらいとんでもないことよな、と思ってしまう。大袈裟すぎる表現だけれども。

宇宙開闢くらいのすごいことだから、思うようにはいかないのが道理であって、思うようにいくことの方が奇跡なのだ。何をやるにせよ。

とてつもない事柄に立ち向かって生きているってことだと思うのです、誰も彼もが、老若男女問わず、地球上のあらゆる人間が、生命体が。

だから、何か一つ実現できたら、それってすごいことなのだと思う。朝、時間通りに起きることも。会社や学校へたどり着くことも。家族や友人や職場の人と話をしてコミュニケーションすることも。読みたかった本を読むことも。食べたかったものを食べることも。夜更かししないで布団に入って寝ることも。全部、すごい!!

あれ?こんなことが言いたかったのかな?
ちょっとわかんなくなってきました。
でも、なんか、繋がっている感覚があって、メモも取らずに順列も考えずに書いてしまった。



とにかくまぁ、人って、実はとんでもない条件の中を生きていると思うんだよね〜、って話なのです。これが主題ではないかもしれないけれど。

誰しも、親から生まれて、その独特の家庭で育って、その土地で育って、インプット方法も、内部処理も、アウトプット方法も、実は全然違うのに『同じにせよ、なぜ同じじゃないんだ!』と言われたりしながら傷ついたり喜びを感じたり好きなものを見出したりして、ぐちゃぐちゃになって形を成して年輪を重ねて幹を太くしている。

全部、違う樹木。
同じ山に生えていて育ってきたけれど、実は、標高が低くて水分の多い土地の方がよく育つかもしれない。
砂漠でこそ豊かに育つのかもしれない。
メキメキ育つには、環境が合っていないのかもしれない。
日当たりが良い場所が向いていなくて、薄暗くて湿度の多いところの方がツヤツヤ豊かに育つのかもしれない。逆もあるだろうし、植生は全部違ってるに違いない。

二酸化炭素じゃなくて硫黄成分が大事なのかもしれない。
水分よりも乾燥が大事なのかもしれない。
『当たり前だ』と思われていることが、適していないのかもしれない。

ここで唐突に具体的な話になると『地域おこしって、こう成っていくことが成功だよね』みたいな『当たり前だ』と思われている/思っている共通認識のようなものが、実は見当違いな場合も、あるのかもしれない。

『同じもの』なんてありゃしないし、『正解の答え』なんてものも実はありゃしないわけですよ、極端な話。

『同じもの』は大量生産された量産品くらいのもんでしょう。これにだって個体差はあるわけだけど。

人間も、人間が取り組んでいることも、条件がまったくデタラメに異なってるんだから『同じ』なんてな、実は無いわけで、似て非なるもの。

だったら『おもしれぇな!』を選んでいくのが正解、たぶん。
ほんでもって『ちょっとヤだな』を回避する工夫を凝らす。
全部違ってるけど、調和が取れていることもまた重要だから。
『無理して我慢して合わせる』んじゃなく。
『楽しく面白くするためにどうすれば良いか?』に知恵を絞る。

そうしていけば世界はもっとよくなるんじゃねぇか?
という着地点なのかもしれない。

これで全部じゃないんだけれど、
なんとなく収まりが良くなった感触なので、これまで。
書いてスッキリしましたわ〜🌟

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