宇宙人家族 #かくつなぐめぐる
赤ちゃんは、宇宙から来た宇宙人。『ママだって、人間』というコミックエッセイで、田房永子さんがそんな表現をしていた。自分の赤ちゃんが産まれてくる瞬間がテレポーテーションで出てくるような感覚で、人間の体の中は宇宙なんだと思ったそうだ。
生まれてしばらくは宇宙(体の中)からしぼり出された飲み物しか飲めないし「育児って宇宙人を人間にしていくことなのかな」と田房さん。
この宇宙のたとえは、妊娠出産経験のない自分にも妙にしっくりきた。自分にとっての妊娠や出産のイメージが、壮大で未知で神秘的な宇宙とちょうどリンクしたのだと思う。
すっかり人間になったわたしは、母の体の中で宇宙人だったときのことを忘れてしまっている。そもそも自分がかつて母の胎内にいてそこから出てきたことさえ、全く実感が湧かない。へその緒で母親と繋がっていた赤ちゃんが意思や個性を持つ人間として育っていくことも、いまだにちょっと信じられなくて、母子関係ってやっぱり神秘的だ。
自分と母のことを思い返してみると、子どもの頃はとにかく怒られていた記憶がある。子どもの頃のわたしは、一度目なら許されるであろうことも(わざとではないれど)何度もやってしまうものだから、たびたびそれで怒られた。
わたしにプンプン怒る母を見て、父は「お前とあかねは似てる。自分に似てるところが目につくから、余計に腹が立つんだよ」と言ったらしい。それを聞いて「たしかにと思った」と母が教えてくれた。
大きくなってからも、一緒に暮らしている間は喧嘩が多かったように思う。仲は悪くないものの、ふたりして自分の考え方を曲げずに相手にわからせようとするものだから、バチバチに衝突していた。ある意味これも、似ている部分があるからこそなのかもしれない。
母娘でなく母と息子でいうと、男きょうだいのいないわたしにとっての身近なモデルは父と祖母だ。
父は、祖母の前ではいつも“いい父親”を演じていた。祖父母のところにいくと、わたしや妹の頭を撫でたり、ニコニコしたり、お礼しなさいとか親っぽいことを言ってみたり。意識的かはわからないけれど、普段しない振る舞いの数々から、親によく思われようとしているのが伝わってきた。
でもそこには多少の無理があって、父と祖母の関係は素直にいいと言えるものではなかったようだ。
依存症の病気になった父に向かって、祖母が「わたしの子と思えないよ!」と甲高い声で怒鳴るのを見たときには、父が不憫に思えた。
五十すぎの大人に言う台詞とも思えないが、そもそも祖母と父は別の人間で、“わたしの子”であることと父の状況や病気は関係ないはずなのに、と悲しくなる。
祖母に反論するでもなく、ただただ黙りこくる父。父は“父親”である以前に、この人の“子ども”だった。同時に、ずっと“いい子”を演じてきたであろうことを改めて思った。
祖母はよく「わたしが言えば聞くから」と言っていたけれど、父もひとりの人間なわけで、親にもどうにもならないことだってある。
わたしと母、父と祖母もそうだったように、親子だと「言えばわかる」「話せばわかり合える」と期待して、ときに押しつけてしまうのはなぜなんだろう。家族とか血の繋がりにはそういう幻想を抱いてしまうところがあって、なかなか厄介だ。
もしも自分が親になることがあれば、自分と子どもは別の人間で、別の人生があるのだということを忘れないぞ、と自戒を込めて思う。
冒頭の話じゃないけれど、赤ちゃんも子どもも大人も関係なく、家族だって相手は宇宙人だと思うくらいに割り切ってもいいのかもしれない。血の繋がりとか関係なくわかり合えない前提に立つほうが、相手を尊重できていい関係でいられる気がする。
かといって、家族関係や家族への思いが永遠に変わらないかといえば、そうでもなかったりする。実家を出て距離を置くことで関係が良くなった、という話がいい例だ。わたし自身もそうだった。
一昨年から去年にかけて、コロナ禍でなかなか会えなかった母や祖母と手紙のやりとりをすることがあった。手紙の言葉がやさしくてうれしくて、自分のことを思ってくれる言葉にじーんとした。久しぶりに読んだ手書きの文字のあたたかさに、家族という概念に対する憂鬱やわだかまりがするりと解けていくのを感じた。