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紅白歌合戦を見ていた

めちゃくちゃ大音量で。外でも十分聞こえるくらいに。
数値は50前後だったと思う。

約10年前祖母が亡くなる頃、毎年家族で訪問した際の風物詩となっていた。
私はその頃から気にしいだったので、「やめて!」とキツ目の口調で注意した。

当然耳が遠いから爆音にしてる訳で。
注意は届かないので、結局私は耐えなければならず。

祖母以外は別番組を見たかったので、もう一つのテレビでそれよりちょっと低い程度の音量で見ていた。

それに対抗するように音量を更に上げる祖母。
本当によく苦情来なかったなと今改めて思う。

何故対抗してくるかという事に関して、理由は分かっていた。
私たちとコミュニケーションを取りたかったからだ。


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祖母は祖父を亡くして痩せ細り、持病の糖尿病が悪化した。
それに伴い、祖母一人での外出の機会も少なくなった。
植物を育てるのが趣味で、自力で庭に出る程度だったと記憶している。

以前は友人らと日帰りでバスツアーに行ったり、常に誰かと遊びに行く様な活動的な人だった。
健康そうなふくよかなワンピース姿は、少し中肉中背に近い形になっていた。

週に3日程、祖母から来て欲しいと電話が来たら、
母と私が車やタクシーで迎えに行き、買い物や病院に同行していた。

その度に母は家事の合間に電話を取り、長電話に付き合っていた。
当時引きこもりであった私は、周りに気丈に振る舞う母を横目で見て、この辛さを共有できるのは私しかいないとそう思っていた。

その為、仕方のない事と分かっていても、祖母に対しては正直迷惑だと思ってしまっていた。

一人暮らしの寂しさからか、手紙も定期的に出していた。
今では思い出の品でも、やはり来過ぎて鬱陶しいと思っていた。


*********


大好きな歌手が出ると、「○○出たよ~!」と大声で叫ぶ。
大声で笑う声が部屋中に響き渡る。

息子である父と嫁である母は気にせず一緒の部屋で別番組を見ていたが、私は我慢の限界だった。
2階の寝泊まりしていた部屋に逃げるように移動した。

祖母が寂しそうにしていたのは気付いていた。
しかし心の余裕がない未熟な私はその感情を受け止められなかったのだ。

そんな日々が続くようになり、私は祖母に当たりが強くなっていった。
会えばイライラして注意する。
ダメージは受けていたであろうが、それでも祖母はにこやかに反応してくれていた。

よく笑う人だった。


亡くなる前の2ヶ月、さすがに私も厳しい態度なんて出せるわけもなく、
なるべく優しく対応するようになった。
笑顔を作るのもやっとの中、私のすくったお粥を食べてくれた。

『〇〇がいつもと違って優しいね』
半分笑いながら言われたその一言を聞き、今まで自分が抱いていた感情が酷く醜いものだったと気付いた。

日に日に記憶を無くしていく祖母。
手紙に私の名前を毎回書いてくれていた祖母が漢字を間違えるようになり、字も段々と歪んで、最後の手紙は文章の意味も成さなくなっていた。

私は本当に今までの自分に腹が立った。
都合良く悲しくなるなと泣きながら思った。

せめてこの2ヶ月間だけでも笑顔の記憶を持たせてあげたい。
そう思いながら最期まで病院に通い続けた。


今とても静かな年末を迎えている。
よく響く豪快な笑い声も聞こえる事はない。

この時期、ふと思い出す。
苦く温かい思い出。

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