ペットを飼える特権
「ペット飼ってない?」と友人に聞かれたとき、「飼ってないよ~」と答えながら、私は引け目を感じていた。
確か3人くらいで話をしていて、私たちはみな、実家を出て大学に通っていて、ほかの二人は実家で犬を飼っていた。
私一人だけペットを飼っていないから、疎外感を覚えたのではない。
なぜか。「ペットを飼っているか」とためらいなく聞ける、それが「いいなあ。私にはできない」と思った。
「ペットを飼っている」(特に犬)が意味することを、彼女は知らない。
ペットを飼える家庭であるためには、
①経済的な余裕があること
②散歩をしたり、病院に連れて行ったりできる人がいること
③さらにその経済的余裕が10数年くらいは続く見込みがあること
④さらに、離婚など家庭環境が変わり、飼えなくなる可能性が現状ないこと
⑤アレルギーがある人や老人、子供、家が賃貸などその他もろもろ、飼えない理由が特段ないこと
このような条件がそろわなければいけない。(もちろん何より、飼う責任を果たせる人であることは言うまでもないが)
私の家の場合↓
①経済的な余裕なし。
②母(働いてる)と私(学生)。散歩になんて行く余裕なし
③経済的な見込み、将来的にもなし。なんなら貯金もなし。母がもし病気等で退職したら路頭に迷うこと間違いなし。
④家庭環境が変化する見込みなし。
⑤アレルギーはないし、動物好きだが賃貸アパートでペットはもちろん不可
ね?
でも、これをいちいち説明するわけないじゃない?
適当に流して、「いいよね~ペット。(私も飼えるもんなら飼いたかったよ…)」と返す。
片や、正社員の父、専業主婦の母、ふたりきょうだいの持ち家の一軒家。(友人)
片や、いわゆる「母ひとり子ひとり」のアパート。(私)
ちょっとした社会の縮図である。
何かを「持っている人」からしたら当たり前の、何気ない一言で、「持ってない側」はその違いに気づかされてしまう。圧倒的に。
私のこれまではその連続だったので、もう、こういうことには慣れている。
友人も、説明したら聞いてくれると思う。でも、私は勝手に思ってしまう。変な空気になるんじゃないかとか、変に同情されたいわけでもないんだよな、とか。
事情は分かってもらっても、そこで私が感じた引け目を理解するのは難しいだろう。
(じゃあ、あんたにいちいち気ぃ遣って、なんの話もできないじゃん。ってなるよね。それもわかる)
じゃあ何がいいたいかと問われれば、「ペットを飼える環境にいるってことはとってもハッピーだよ。その命を大切にしてあげてね。」ってことかな。
これって、ジェンダーや不妊とかにも通じる気がするの。ほかにもきっとたくさんあるよね。
街中で堂々と手をつなげる男女カップルに。当たり前のように妊娠して子どもを授かっている人に。健康な身心を持っている人に。
「そうでない側」は、「そうである側」の人たちが持っている特権のようなものが見える。
だからこそ、「大事にしてね。」と言いたくなるのだ。それはそんなに当たり前のものではないから。