毒教師に担任された話②
自分の将来の夢を否定された経験がある人は、少なくないかもしれない。
誰に、いつ否定される経験が多いのだろうか。親、教師、周りの人。習い事の先生、親戚、友達とかだろうか。そのあたりが私の思いつく範囲だ。
それではいつ?小さい頃の夢を否定するというのはどちらかというと少なそうだ。中高と学力が関わってくると、現実を見ろと言われたり。あとは金銭との問題か。
私は将来の夢を口に出さず秘める方だった。今でも言わない。言わなさすぎてわからなくなってしまったのかもしれない。
でも将来の夢、を書かなきゃならない機会は延々とあった。忘れられないのは、毒教師に言われて将来の夢を書き直したことである。
あの、小学校3年と6年の担任。毎日がプレッシャーで、嫌味を言われないように頑張っていた日々。できるだけ出る杭にならないように。
あれは小6のことだったと思う。卒業文集に自分のプロフィールを載せるのに、将来の夢を書く欄があった。迷ったけれど、私は秘めておくタイプかつ自分に嘘はつけないタイプで、正直なことを書いてしまった。
そこではじめから嘘を言えば、傷つかずにすんだのだろうか。
私が書いたのは「作家」。本を読むのが好きで、図書委員もしていた。あの年齢にしてはかなり本を読む方だったと思う。小学5年くらいからは推理小説にハマり、ポアロ、ホームズ、東野圭吾も読んだし、あとは星新一も好きになった。
それを提出して言われた言葉は覚えていない。一言一句はっきりとは。ショックで記憶が飛んだのだろうか。わたしはあまりそういう経験はないし、する方でもない気がしているのだが。
まあだいたいは覚えている。「もっと現実的なことを書け」
そんな感じだった。私は夢を「医師」に書き直した。
毒教師はただ単に私に夢を書き直せ、と言ったのではない。そこには理由があったのだと思う。私の家は親が離婚して母子家庭だ。
ちゃんとした職を持ち、作家なんていう確実性の低いものを目指し、さらに悪くなればこだわったりして、親を困らせるなと。その言い分はわかる。私や親のことを思ってくれたんだろう。
でも今の私なら小学6年の自分に言う。
気にするな。そんなの余計なお世話だと。うるせえばばあと心の中でもいいから言ってやれ。夢を見るのは自由だろ、と。
それ以来、自分は親に迷惑をかけてはいけないという呪いがかかったままだ。迷惑はかけないほうがいいかもしれないけれど、遠慮までするようになっては、子どもが子どもとしていられない。
私は周りが期待する私になるように、知らないうちに意識していたのかもしれなくて怖いし悲しい。
夢は変わったし、今思えば大したことではない。といい聞かせている。
でもやっぱり辛かったのは、自分が真剣に思っていたことを否定されたことに尽きる。自分は自由に夢を見てはいけないんだと、勝手に足枷がついてしまった。それを外す鍵を探している。
簡単にとって自由になっている人もごまんといるのに、なぜ私にはその鍵が見つけられないんだろう。もうお局は看守としていないのに、恐怖が抜けきれずに足枷をようやく外せるか外せないかのところでわだかまっている自分がいる。
他にも毒教師に夢を否定されていた人を見た記憶がある。ある男の子(勉強や運動ができる方ではなく、不器用な感じだった。)が、将来の夢に「コンビニの店員」と書いたのだ。(店長、だったかもしれない。でも私の記憶では店員だ。)
お察しかもしれないが、これに毒教師はいい顔をしなかった。でも私は思っていた。コンビニの店員のどこがいけないの、と。
その人がなりたいなら立派な夢である。コンビニだっていろんな人が客として来るし、業務もいろいろあり、24時間営業で大変な仕事のはずだ。先生はバイトとしてもできる仕事を書いて欲しくなかったのだろうか。
私はコンビニの店員だって、立派な接客業だと思う。毒教師は誇りをもってコンビニ店員として働いている人に失礼じゃないだろうか。
コンビニ店員だって、みんなから好かれる有能な店員を目指せばいいではないか。というか、本当はその必要もない。目指さなくてもなりたいならそれは夢なんじゃないのか。
それに怒りを感じた覚えがある。自分の時はしおしおと凹んでいたのに、どこから出て来るんだこの正義感。
こうやって夢の芽は潰されていくのである。現実を見ろ、と。でも現実では夢を見られない、という現実を作ってきたのは毒教師のような大人たちなんだろうに。
夢のない生活なんて私は嫌だ。
でも、翼の折れた鳥がまた羽ばたけるようになるには、時間がかかる。いつになったら修復するのか。映画マレフィセントを思い出しながら、そう思った。