友達からの連絡が怖い -死産から火葬までの心情観察日記⑤
項目ごとに関連のない、その日の考えをまとめた日記です。
寝る前に動悸がする
もともと自律神経が整っていないので、動悸は感じやすかった。
退院して2日目の夜からはマイスリーなしで寝付けるようになったけれど、動悸がする。
寝転がってしばらくスマホをいじっていると、心臓がバクバクしてくる。
自律神経を整えたいけれど、おとといからは夜は眠れているし、朝は犬の散歩に行っているし、何をどう変えたら良いのだろう。
自分なりに整理して心がかなり落ち着いたと思ったけれど、身体的にはストレスがまだ強いということか。そりゃそうか。涙が出ないからもう悲しくないわけではないか。涙が出なくても、辛いことは辛いのだった。
早く楽になりたすぎて、また急いでしまったんだな。
まだ癒えてないと自分を安心させてあげたい。難しい。
友達からの連絡が怖い
とにかくLINEが怖い。
SNSは絶ったけれど、さすがにLINEは消せない。年末に向けて連絡が増える時期だから、昔の友人からも連絡が来る。
なぜ怖いのかよくわからない。
妊娠しました!とか、生まれました!って言われるのが怖いのかもしれない。
私の気持ちが落ち着いていないのに、明るく返事をするのがしんどいのかな。
自分でもよく分からない。
私の生い立ちも人格もあまり知らない最近の知り合いからの連絡はあまり怖くない、会社の人事からの連絡も怖くない。
学生の頃からの友人からの連絡が怖い。
なんだろう、この差。
死産したことを言うべきだと思っている?なぜ?子どもがいる友人に言いたいと思うか?子どもがいない友人にも言いたいと思うか?誰になら言いたくて、誰には言いたくない?
どれも白黒の答えが出ないけれど、やっぱり自分の人生にとって大きすぎる経験だから長い付き合いの人には話したいのかもしれない。当事者である夫と、関係者である医師・看護師としか話していないから。
でも暗い話だからどう切り出していいか分からない。
そして私は話をして、なにがしたいんだろう。
衝動的に友人にLINEしそうになったが、踏みとどまった。
いま私は「話をしたい」と言う衝動が強いけれど、何を言われたら嫌なのか、嬉しいのか皆目見当がついていない。
今整理していて思ったけれど、悲しみの共有じゃなくて、経験の共有として話したいんだ。
いつ、何を言われてどう決断したのか、どんな苦しみだったのか、結果どうなったのか。
私の人生に起きた劇的な経験を話したいんだ。今まで飲み会のネタで面白い話や、エピソードトークをしてきたのと同じように、聞いてもらう側には、「ほんでほんで」「それで?」な態度を求めているのかもしれない。
このエピソードトークには残念ながらオチはまだついていない。話したところで、聞き手側からしたら今はバッドエンドの尻切れトンボになっている。
ああ、でも話したいんだ。
自分の身に何が起きたのか。
noteで気持ちを発散してたつもりだったけれど、生身の人間にぶつけたくなってきたらしい。
我慢せずに気の置けない友人に話してみようかな。
自分へ
いまメンタルに左右されて衝動性が強くなってしまっているから、「伝えない人(コミュニティ)」と「伝えたい人」は整理しておいた方がいいかもしれない。
あと、胎盤の検査を受けた結果が出るまでは新しく誰かに打ち明けると後々つらいかもしれない。
心理カウンセリングを予約してみた
前回の記事の母親の確執について、自分で整理しきれない気がしてカウンセリングできる場所を探してみた。
近年は精神科や心療内科も予約がパンパンだが、こちらもなかなか枠が厳しそうだった。
とりあえずいつでもオッケーで申し込んでみたもののいつ受けられるのやら。
日本も精神医療やカウンセリングが一般的になってくれればいいのに。
死産届の妊娠停止理由が「経済的な理由」と書かれている
母体保護法の一部を引用する。
私の死産届には、中絶の理由に一にあたる「経済的な理由」と記載されていた。
文字通りお金の話であればそんなわけはない。いずれ心臓が止まる胎児の死産をするのに、流産を待たずに20万(検査費込みで30万)払うやつが経済的な理由で中絶するわけがない。
ただ、「労力が不経済である」という観点でいえば、たしかに、経済的な問題かもしれない。
どうせ心臓が止まるのなら1日でも早い方が私の体に負担というコストが少ないから、人工死産に至った。
ギリギリの心臓で1分で198回もの脈を打って、いつ心臓が止まってもおかしくない状況を生き抜いて12週を迎えたのに、私の事情で命を終えた。
こう書くと非常にセンセーショナルだ。でも、私の体だから。人工死産の選択は正しかった。
話を戻すと、理由の「経済的な理由」については疑問が残る。
これを国勢調査の結果として出すのであれば、正しい理解が進まない。
文字の通りのお金の問題とは別なのに、母体に直接的な危害のない胎児異常による人工死産も「経済的な理由」としてしまったら実態が見えない。実態が見えなければ、課題設定も打ち手も全てが的外れになっていく。
妊産婦に、子どもがいる家庭に、若者全体の実態にそれぞれ目を向けて問題を解決できる政治であってほしい。でもパラダイムシフトは今政界を牛耳っている老人がいなくならないと起こらないんだろうな。
人間は自分が見る世界のものしか理解できないから。
天動説が主流だった時代にに地動説が染み渡るようになったのは、天動説を信じていた人が死んだからだし。
ともかく、この欄は正しい実態を書く欄にしてほしい。
ただでさえ死産届なんて書きたくないのに、自分に全くそぐわない理由が書かれているのを見てうんざりしたくない。
犬を迎えてハッピーになった
子どもを迎える決意をする前に犬を迎えた。その時は子どもが欲しい決意は固まっていなかったけれど、今の働き方なら犬を迎えられる!と思って大型犬を迎えた。
私にいつも寄り添ってくれて、たまにしつこいくらいに愛を与えてくれる存在には、メンタルがどん底の今はかなり助けられている。
犬を迎えたことで、同じように庇護対象になる子どもについても覚悟が決まったという背景もある。
犬を迎えて私が1番幸せを感じるのは散歩をしている時である。
四季がめぐる自然の中を、犬と一緒に歩くだけで、「世界って美しいな」と思える。
花の見頃がすぐ過ぎることも、冬の寒さで急激に紅葉することも、春に向けて蕾が膨らみ始めることも、毎日公園に行かないと気づかない。
犬と一緒に季節の巡りを感じながら歩くのが私が生きていてよかったと思う瞬間である。
人工死産を決めた翌日、つまり入院前日も犬の散歩へ行った。
抜けるように晴れた空で、落葉した木の枝の間から朝日が眩しく差し込んでいた。犬が楽しそうに歩いている。
「こんなに世界は美しいのに、なんでお腹の子は生まれてこないんだ」と思ってしまい、泣きながら歩いた。
自然のエラーで起きる仕方ないことがたまたま私の身に起きただけだ。私と犬が生きてここを歩いていることに感謝したい。