へたり込んでたオリヅルラン、今は明るい棚の上。
私がポトスを育て始めたのは、前回の記事の通りである。
このポトスを置くために、混沌状態だった部屋を“なんとかしてみた”結果、今私の部屋には植物用の棚が一台、設えられている。幅45cm×奥行30cm×高さ70cm程度の、白いスチールラックだ。ポトス一つを置くには少々大きいものだけれど、そのうち挿し木などで増やすつもりでいたので、それまでは下の段を開けておくつもりでいた。
ところで、『車を買ったら、街中で自分が買ったのと同じ車が目に付くようになった。今まで車の種類なんて気にしたこともなかったのに……』という話を聞いたことはないだろうか。対象が車でなくとも、これと似たような経験をお持ちの人は結構いるだろうと思う。今まで気に留めなかった物事が、“自分と関係のあるもの”になった途端、目に飛び込んでくるようになるのだ。
これは植物にも発揮されるものらしい。何とかポトスの定位置が決まった頃、私の目に飛び込んできたのは、家の玄関の一隅にあった瀕死のオリヅルランだった。
そのオリヅルランは、私の記憶が正しければ、祖父がまだ元気だった二十年以上前、直径20cmほどの鉢の表土を覆い隠すように、外斑のしなやかな葉を茂らせていたものだ。その中から太い茎(ランナーという)を伸ばし、その先にオリヅルランというの名の通りの、折り鶴のような子株をぷかぷかと浮かべていた。小さい頃の私は、その姿をよく眺めていた記憶がある。もしかすると葉の数枚はむしったかもしれない。ごめんなさい。
祖父は植物が好きで、家の中には結構な数の植木鉢があった。覚えている範囲でもピレア、グリーンネックレス、シャコバサボテン、シェフレラ、アロエベラあたりはあった筈だ。あとは季節の花々、シクラメンや月下美人、胡蝶蘭も確か見たような気がする。しかしまず祖母が高齢で伏せり、ついで祖父自身も要介護の状態になると、残る家族の面々でその鉢たちを世話することなど到底不可能だった。次々に枯れていく植物たちを私は見ていた筈だが、正直、あの時代のことはあまり思い出せない。
介護が終わり、書店員となってからも、私は植物を気に留めることはなかった。朝家を出て、帰るのはどんな奇跡が起きようが午後7時より早くなることはなく、体力もギリギリという暮らしを送っていた私は、植物を気に掛けられる状態ではなかったのだ。
しかし現在、ポトスを部屋においた私は、玄関にいたそのオリヅルランが気になってしょうがなかった。日当たりがいいとは言えない玄関、辛うじて枯れてはいなかったけれど、その葉は表土の上に這うようにへたり込んでおり、半ばは黄色くなって、枯れるのを待つばかりという状態だった。他の鉢には母が時々水をやっていたらしいが、「オリヅルランは丈夫だから少しくらいほっといても平気」、というその『少しくらい』が少なくとも数ヶ月以上に及んでいたものらしい。
土は完全に乾ききってガチガチに固くなっており、ランナーの先にいた子株も日光がない為に、白い斑が消えたり、葉が固くなったり、触れれば枯れ葉と間違えるような状態だった。しかしまだその葉には辛うじて、緑色が残っている。
ちゃんと世話をしてやれば息を吹き返すかもしれない。
私は自分の部屋の棚に、その一鉢を引き受けた。
素焼きの鉢から土ごと本体を引き抜いてやれば、工事現場のような砂埃が舞った。土の中は本当に、一滴の水も残ってはいなかったのだ。しかしそれでもオリヅルランが『死んではいない』状態だったのは、その根の力によるものだということもはっきりした。乾ききった土の中、鉛筆ほどの太さを持つ根がわさりとついていたのだ。三分の一ほどは黒く腐敗し、残る大半もほとんどしなびてはいたものの、ほんのわずかに水を蓄えていた。
しなびた太い根の先、水を求めて伸ばしたであろう細かい根がぐるぐると渦をまいていて、そのほとんどは完全に乾ききっていた。がさがさしたその根に触れたとき、私は何だか胸を突かれるような思いがした。水がない、光もあまり当たらない、その状況で一心に生き延びようとしていたのだ。植物をあまり擬人化するのはどうかと思うけれど、とても苦しかっただろう。
かなり弱ってしまっているのは間違いない。この状態で根を全て取り除いてしまったら、持たないだろう。この段階で私は、乾ききった細い根と、黒く腐敗した部分、そして地上部の明らかに枯れ果てている部分を切り取って、新しい土に植え替え、水をやった。のびたランナーも、単独で生き延びられそうな大きな子株二つを切り取って、ちょっとだけ出かかっていた根っこの部分を、水の中に挿した。
翌朝、しなびきっていた親株の葉は、土から持ち上がって宙に弧を描いていた。細く固く閉じた、弱々しい葉ではあったけれど。
生きてる。この株は、ちゃんと生きている。
そう思って状態を見ながら世話を続け、三週間ほど経った頃、親株から新しい葉が出ているのを発見した。
嬉しかった。ちゃんと生きてるよ、と言っている気がした。
しかし新しい葉とは裏腹に、あの環境を生き延びた固い葉たちは、徐々に根元から黄色く変色していっていた。あれこれ調べてみた結果、やはり根が痛んでいるのだろうという結論になった。しかたないと思う。最初に鉢から抜いたあの時点で、全て腐ってはいなかった、というだけで奇跡のような状態だったのだから。
この時点で、十一月の頭である。このまま放っておけば土の中で腐敗が進行してしまうに違いない。しかしこれから冬が来る、平均気温が北の大地と張り合えるくらいの冬が来る。しかも家の防御力は北の大地の家々より明らかに下。この時期に根を切るのははっきり言って危険だが、どうする? ……迷った末、ギリギリのタイミングだと思ったが、なるべく暖かい日を選んで、私は再びこの親株を鉢から抜いた。土を払えば、辛うじて生きている黒くなりかけの古い根の脇、新しい、眩しいほど真っ白な根があった。
これなら、大丈夫だろう。新しい葉を養うだけの根としては――と私に確信をもたらしたのは、親株の傍らで育てていた子株の存在だった。生き延びた二つの子株のうち、片方は水栽培に、片方は一週間ほどの水栽培ののちに鉢上げした。両方とも順調に育って新しい葉を出していたが、鉢上げした方の子株の根と、今の親株の新しい根は、ちょうど同じくらいだったのだ。
思い切って、親株の古い葉と根を切った。小さめの、新しい鉢を用意して植え付け、ポトスを植え替えるのにも使った活力剤(メネデールという冗談のような名前だが、根を生やすのにとても良い植物用栄養剤。60年くらい前からあるらしい)を入れた水をかけてやる。育ってくれよ、と思いながら。
枯れてしまった部分もあるけれど、新しく伸びている葉っぱは今日も元気だ。両手に収まるくらいのプラ鉢なら、寒い夜には保管用の箱に入れることも簡単にできる(元の親株の鉢はかなり重かった、ポトスたちと合わせると棚の耐荷重量が気になってくるくらい)。春になったら株分けしてやろうかと思いながら、現在、このオリヅルランはポトスと同じ棚で、レースのカーテンごしに、明るい太陽を浴びている。いつか、私が小さい頃に見たような、緩やかに弧を描く葉を鉢一杯に茂らせた、あの優雅な姿になるのだろうか? そんな風になったらいいなと思いつつ、今は冬を乗り越えることを考えて、新しい保温箱(という名の衣装ケース)を一つ増やした。そういう訳で今、私の部屋には植物越冬用の箱が二つある。一つはポトスの為の、もう一つは辛うじて生き延びた、このオリヅルランの為の箱だ。
頂いた投げ銭は、全て生きる足しにします。ありがとうございます。