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やっぱり人間が好き。人間愛してる。
ハロー。
書こう書こうと思ってることが全然書けてないよ。
変な思考が脳内に有象無象して変な人になってるよ。
なんか、今まではボヤッとしたでっかいカタマリを、時間をかけて凝縮させていって、「なんかこれはもう個体と呼べるんじゃないか」というとこまで固まったら発散していったけど(というかボヤッとしてる以上文章として出力されない)、もうちょっとちゃんと思考を小出しにしていこうかなって。
思ったりした。
思考があさあさでも。文章と定義されない言葉でも。
なぜかというとね、忘れちゃうからです。
本当にね。忘却は罪ですよ。
なんでもかんでも忘れちゃう。
あと、自分でブログとかnoteとか読み返したときに、めっちゃ長いなって思う。
字面だけ追いながらスクロールしてて「まだあんじゃねぇか」って思う。
たぶん、後半のほうとかもはや誰もちゃんと読んでないよなとか思って、勝手にかなしくなってる。
書くのって、地味に時間かかるよね。
時間かけて書いて、自分でも読み直すのめんどくさくなっちゃってつらい。
えー。
人間が好きなんですよ。度々言ってるけど。
人間が好きなんですね。
どのくらい好きかというと、好きすぎるあまりに傷つけたくなくて、でも自分と関わることで傷つけたり傷つけられたりしたらやだなって思って、関わることがいやになっちゃうくらい好きなんですね。
ええ。
ちょっとなんか、きもい文になりましたけど。
人と関わることが好きなのに、別れて、1人になってから、
あの時あの人の話遮っちゃったなー
とか
最後まで聞かずにリアクションしちゃったなー
とか
人が自分の話してたのに奪っちゃったなー
とか
なんかめっちゃ偉そうになっちゃってたかもなー
とか
わざとらしくなりそうで「ありがとう」って言えなかったなー
とか。
色々...
考えるもんですな...
まあでも人間関係におけるちょっとした後悔って今に始まったことでもないし、私に限ったことでもないだろうけど、
以前、けっこう前だけど、ツイッターだかインスタだかのリプ欄で見た(いつも全然関係ないリプ欄に心を乱されている)、
「友達といるとき楽しいけどめっちゃつかれる」みたいなニュアンスのコメントに対して(※ニュアンスです)、
「それって友達っていうの...😢?」
的なニュアンスのリプがあって
(けっこう前に見たやつなのでめっちゃニュアンスです)
なんか、人といる時に(ここでいう人とは任意の人間)「疲れる」とか「エネルギー使う」という感覚を感じない人間もいるんだな〜って思って、
その時は「いろんな人がいるよな」って流してたけど、なんとなく脳内の奥底からちんあなごみたいに度々飛び出てくる記憶のひとつがそれで、
簡単に言えば「外向型」と「内向型」の違いなんかなと思うまでだけど、
人といる時にエネルギー使っちゃうってのはもう、自分の問題だから、人がどんなに優しくて関わりやすくて、めちゃめちゃ心地良いコミュニケーションを築ける人であっても、エネルギーは使っちゃう。
エネルギーを使っちゃうのは別に「関わりたくない」とか「好きじゃない」とかじゃなくて、ただただ「人と関わる」という行為そのものに費やすエネルギーが大きくてすぐ枯渇してしまうというだけ。
人間関係の燃費が悪いというだけ。
というか、好きだからこそ消費エネルギーが大きくなるのよね。
別にどうでも良かったら心の矢印を外に向ける必要はないわけだし。
外に向けようとするのは、そこにいる相手と関わろうとする自分の意思だし。
ただもう、自己嫌悪自己嫌悪してしまって、もうこれから先は1人で生きていくべきなんだろかって思ったりして、でも人と関わって生きていくことを諦めきれない。
自己嫌悪をとっぱらって今の自分に満足したい訳でもない。
ただ人には「この人とは良いコミュニケーションを取れる」と思われていたい。
難しいのだね。
一人の人間としてじゃなく、例えば立場(先生、親、年上年下とか)、役職(上司、公務員、政治家とか)、概念(男女、金持ち、子どもお年寄りとか)だけで嫌われることも大いにあるから。
気を張らないように生きよう。
ただ人に嫌われても人を好きでいるということ。
以上です。