「自分の感受性くらい」
いつだったかはわからないけど、たぶん国語の教科書に載っていた茨木のり子さんの詩。
たまに思い出すことがある。
出典うまく探してこれなかったので、どんなのだったっけ、と思った方はぐーぐる先生に聞いてみてください。
小学校のとき、「音読」という宿題があった。
保護者にきいてもらって、サインなり何なりしてもらうもの。声の大きさだとかそういうちょっとした評価項目もあって。
どれくらいの人が真面目にやっていたか、もう知るよしもないのだけれど、うちの場合は特に父親が率先して音読の宿題に熱心だった。
毎日、律儀にやるものだから、学校でその単元(小説、詩など)をやっている間ぜんぶ同じものを読むと飽きてしまう。勿論、抑揚などの評価項目を完全にクリアするまでは同じものを読む。演劇とかそういうことをやっていたわけではないけれど、聞いている親が何だか妙に熱心で、私も音読は嫌いではなくて、きっとこれが人前で喋ることに気後れしない今の自分に繋がっている。
そんなわけで、読むものがなくなっていくと、父親は何かしら新しいものを見つけてきては私たち(私と弟)に読ませた。
外郎売りの科白を練習したこともあるし、なにかの詩だったこともある。雨にも負けずも読んだ気がする。あれは教科書にも載っていたかもしれない。ついには「理想の国語の教科書」という本まで仕入れてきた。あんまり覚えていないけど、いくつか好きな話があったような気もする。
「国語は嫌い」という人をたくさん見てきたように思う。理系にいると特に「国語はほんとにダメで」なんていう話もよく聞く。
そういう話を聞きながら、「国語は得意だったけど、好きとか嫌いとかいう概念がないなぁ」と思い立った。
ことば、もじ、生まれてからずっと一番近くにあるもの。
それについて評価されるのはよくわからなかったけど、国語というものは自分の基礎をつくっているなぁと感じる。
何かの一節をふと思い出したり、覚えてはいないけど実は何かを考えるもとになっていたり、そういう、意識的ではないところで、「わたし」をつくっている。
それは、「音読」の「ことば」の蓄積でもあり、「読書」の「知識」の蓄積でもある。そして、きっと、「感受性」も。
私が何かを感じるとき、件の詩がなんとなく頭の端を過る。
そんな、深い深いところにある、国語のおはなし。