私が怪しい宗教団体を抜けるまで〜きっかけ〜
一年前、大学に入学したての私は、やっとつらかった受験生活を終えることができたという安心感と喜びで胸が溢れていました。
すごく大変だった。しかも田舎の自称進学校で私が目指していた大学に合格した先輩は過去4年間でゼロ。負けないという強い気持ちで受験生活自分と戦ったため、終わった後の解放感は半端なかったです。
毎日ゲームし放題、寝放題のなんて極楽でしょうと言わんばかりの生活を続けていました。もちろん、すごく幸せだったけど、それと同時に、「大学生活ってこんなもんなんだ」「もっとキラキラしているはず」という猜疑心と憧れの大学に入ること自体が目的だったから、大学に入ってから何をしたいのか、何を目指したいのかというゴールが分からなくなってしまった虚無感で胸に何か石をつかえたような気持ちもしていました。
そんななかで、とある日、同じ大学で受験期相談に乗ってもらっていた先輩が、「君たちはどう生きるか」の読後感想共有会をしようと誘ってきました。
わたしは招待されたことが嬉しくて、その本を読んで生きることについて考え、後日その会で発表しました。明確な答えは得られなかったけれど、先輩二人と私で、みんなそれぞれ違う意見や感想を持っていて、すごく面白いなと思える時間でした。
感想会が終わった後、その誘ってくれた先輩は「どうだった?」と聞いてきました。いろいろ感想を述べました。
その先輩は(以降U先輩と呼びます)「生きる目的ってなんだろうね、難しいよね。ぼうあいすちゃんは、大学生活、楽しんでる?」
そう聞かれて、私は素直に今の心境を言いました。「正直、あまり楽しくないし、受験生の時は合格というゴールに向けてがむしゃらに走っていたけれど、合格してからは目的やゴールのない毎日を生きていて、生きがいもないしあまり輝いている生活を送ってはないです。生きる目的についてもよく分からず、見失っているきがします」
私がそういうと、U先輩は、「分かる。私も受験後そうだったな、迷走している感覚になるよね」激しく共感してくれました。私はすごく共感してもらえたことが嬉しかった。
そんなとき、U先輩が「ぼうあいすちゃんは今、自分を変えたいと思っていない?私はさ、自分が嫌いだったんだけれど、とある本をきっかけにして自分がすごく変化したと思えているの。何か知りたい?」と聞いてきました。
「世界でベストセラーの本なんだけれど。」そう先輩が言った瞬間、わたしは「まずい」と思いました。
聖書のことをこの先輩は言っているな、もしかして私今、怪しい宗教の誘いをされているのではないか、とすごく恐怖に満ちた心情になってしまいました。
もちろん、宗教ってわたしたちを救ってくれるようなそういう素晴らしいものであることは十分知っていましたが、その一方で宗教というとオウム真理教などのようなカルトみたいなイメージが私の中ではあり、どうしても不信感と違和感を覚えられずにはいられませんでした。
このとき、私はこの自分の本心に従っていればよかったのに、と思います。
U先輩は「そう、聖書だよ!よくわかったね!今、怪しいなと思ったでしょ?私もぼうあいすちゃんだったら、先輩から聖書を勧められると怪しいなって疑っちゃうから、その気持ちめっちゃわかる笑。 でも、教養として、せっかくだから社会人になる前に聖書を詳しく読んでみることをおすすめするよ!」と言いました。
怪しいなとは思う一方で、U先輩は私の気持ちをお見通しでした。そして私の立場で話してくれたことに好感を持ったのと、たしかに、教養として聖書を知る経験も必要かもと思い、読んでみることにしました。
その先輩が憧れだったし、疑いの気持ちもすぐに飛んでいって、聖書学習について興味関心が芽生え始めました。
しかも、U先輩は同じ大学の先輩。優しくて、笑顔が素敵で、そんな先輩が好きでもあったから、信頼感でいっぱいでした。疑う余地なんてどこにもないし、同じ大学だし、常識もある。そう思ってしまっていました。でも、本当は、もっと疑ってみるべきだと後悔しています。
これがきっかけでした。
(続く)