『ナイトクルージング』の静かなさけび
週末の空気感か漂う渋谷、アップリンク。
映画館のシートに身を沈めた私は一体何を見せてくれるのか?と期待していました。
エンターテインメントという装飾に彩られたゆるやかで社会性の高い映画作品を勝手に想定していました。
でも目の前に現れたのは深い暗闇。
その暗闇は私が受動的でいることを許してくれませんでした。
幼い頃に「おしいれのぼうけん」という絵本を読んだ時のような想像力を掻き立てられ、現実をも超えるリアルへといざなわれていきました。
『ナイトクルージング』
この作品は佐々木誠さんが監督したドキュメンタリー映画です。全盲の加藤秀幸さんが映画制作に挑戦する過程を追う、という「入れ子式」の構造になっています。「見えない」人が撮る映画とはどんなものなのか?
と単純に興味が湧いて、映画館に足を運びました。
映画の中の加藤さんはとても哲学的でした。
明るいか暗いか?
明るさを知らないのだから暗さも分からないと言います。
空間をどう認識するか?
自分が触れたものから世界が実在することを認識すると言います。
色という概念をどう理解するか?
そもそも「見えている」人の色の定義は曖昧です。例えば青い色を説明するのに海の色と答える。でも海の色を知らなければその定義は何の意味も成さないわけです。
だから「見えていない」人は色を定量的に定義して認識するのだと知りました。
人の顔の美しさと醜さは骨格で判断できるのか?
美しさを定義づけしたら骸骨を見ただけで美人を識別できるようになるのだろうか?でもそもそも美しさなんてどうやって定義できるのか?と、日頃自分がとらわれている美しさがいかに曖昧模糊としているかを感じました。
私は映画を観ている間、
期待と試練を感じながら慣れない土地を旅してさまよっているかのように、この作品の終着点に期待を抱き、その過程で突きつけられる試練にもがいていました。
そのもがきの中、ネコがニャーと鳴いて突然映画が終わりました。
あれ?ゴールはどこだったのか?と、
肩透かしに遭ったような脱力感を味わっ
いました。
それと同時に漆黒のスクリーンから、
考えろ
もっと深く
と声が聞こえた気がしたのです。
私は今何を見て、何を見ることを放棄しているのか?そしてその結果どんな可能性を潰しているのか?
生まれながらに与えられた「感覚」に甘え、その感覚をあえて鈍化させてきたことへの後ろめたさを不意に突きつけられたような気分になっていました。
この旅には実は終着点は無いのだ、と
だからもっと考えなくては、と
自分の中の何かが声を上げました
身体的にハンディキャップがある人はそれを補完するために他の身体的機能が敏感になるといい、そのことをすごいと称賛する人がいます。
私はある意味、上から目線とも思えるその思考に日頃から漠然とした違和感を感じていました。
見えているのに見えないふりをし、感じられるのに感覚を敢えてオフにすることで素通りしていることがいかに多いことか。と。
映画はエンターテインメントなのだとすると、この映画は私にとっては映画というよりむしろひとつのアート作品であり、静かなさけびなのだと感じました。
しばらく深い思考の森をさまよい続けたいと思います。
アイスクリップ