#はじめてのタワマン文学
地方出身の私にとって購入したばかりの都内のタワマンは地元の友人に対して優越感を持てる豊かさの象徴であり、奮発したインテリアをInstagramに載せると同級生からは数多の賞賛を浴びた。しかし憧れの彼女がこのタワマンを見上げることは生涯ない。それだけは明白な事実だった。
思春期のかけがえのない時間を犠牲にして文字通り血反吐を吐いて勉強し、慶應の商学部に合格して上京した。実家が広尾や元麻布の平家という同級生たちは子供の頃からヴィトンの服に身を包み、親族が多額の寄付金を支払い幼稚舎から通っているというだけで簡単に慶應大学生という称号を手にした。
特にミスコンで優勝した同じ学部のミキちゃんの家の大きな庭には桜の木が植えてあり、夜になるとライトアップされることは有名で、玄関を大理石にリフォームしただけではしゃいでいた母が急に恥ずかしい存在に思えた。ミキちゃんは挨拶を返してくれたが、お茶やランチに誘ってくれることはなかった。
就活が始まり、第一志望の丸紅の自己PRで「成果を出すまで猪のように走ります」と答えた私には不採用通知が届き、「私を採用したくなる魔法をかけます♡」と答えたミキちゃんは合格した。ガスター10が手放せない地獄が続き電車に飛び込みたくなったが、6社目の面接で小さな貿易会社に内定をもらった。
入社後は非常に忙しく不規則な生活が続いたが、女だからといって舐められないようカフェインを流し込み夜遅くまで働いた。やはりガスター10は手放せなかった。ある日の会社の帰路で、ミキちゃんとその取り巻きが六本木の有名なイノベーティブフレンチの店から出てきたところに鉢合わせた。
学生時代と変わらない、いや更に磨きがかかった彼女には後光が差して見えた。「久しぶり」とミキちゃんがにこりと私に向かって笑いかけたが、朝からメイクを直していない私は視線を合わせられず、彼女の美しく整えられたネイルを凝視した。手元のバッグは品の良いエルメスのケリーだった。
「一緒に飲みにいく?」と取り巻きの男の一人が言うと、ミキちゃんも「行こうよ」と私の手を取った。私にとってそれはブルーノマーズ単独ライブのSS席チケットを貰ったも同然で、ダンスをしたこともないのに踊り出したい気持ちでその集団に加わった。
到着したクラブのVIPルームに顔パスで通されている間、鋼鉄の鎧で武装をした騎士のように強くなった気分だった。無敵だ。誰かの誕生日なわけでもないのに知らない男たちは1本12万のベルエポックを空け、店員がなぜか勝手に持ってくるショットグラスに入ったテキーラで数回乾杯した。
未成年のように見える女の子もVIPルームに追加され、爆音の隙間から「女は黙って対面座位」とか「港区しか勝たん」とか彼らが放つ意味のなさない言葉を聞いていた。再びテキーラで乾杯して回る酔いに身を預けながらミキちゃんを見ると、彼女はテキーラを全て隣の男のショットグラスに注いでいた。
素直に全て飲み干していた女は私だけだったことに気がついた時には時すでに遅し、世界は回転し始めていた。ふらつく足で何とか女子トイレに着くといつの間にか背後にいた男が私の髪を掴み、男の局部を私の喉に突っ込んだ。それをきっかけに私は思いっきり嘔吐し、男の局部は私の戻したゲロに塗れた。
男は顔を歪ませ「汚ねぇな」と私を張り倒すと踵を返し、私は立ち上がることができずそのまま床に吐けるだけ吐いた。VIPルームへ戻ると、女子たちはタクシー代を受け取ったり男と一緒に帰るためにUberを呼んでもらったりしている最中で、私はミキちゃんから「気をつけてね」という言葉だけが渡された。
ふと毛先を触ると自分の嘔吐物が固まり軋んでいた。闇金ナントカくんに拘束されてるわけでもなければ拉致されて臓器を売られそうになっているわけでもないのに、突然ここから逃げなくてはいけないという恐怖に襲われて、ヒールで走り出したらエレベーターの前で盛大にコケた。恥ずかしかった。
両膝がじんじんと痛み、タクシーに乗り込んでから膝を見るとスラックスパンツには薄らと血が滲んでいた。そういえば今日ミキちゃんに一度も名前を呼ばれていないことに気が付いた。いや、在学中に呼ばれたこともないのではないか。そもそもミキちゃんは私の名前を知っているのだろうか。
再び吐き気がこみ上げ窓を開けようとするが間に合わず座席に吐瀉物をぶちまけると、運転手から清掃代として3万円を請求された。
「おかあさん、ゼリーたべたい!」無邪気な子供の声で我に返った。無痛分娩で産んだこの子ももうすぐ4歳になる。あの時3万円を持っていたのかどうかは定かではない。
あれから「クラブなんて行ったことがない」という顔をして過ごして夫と社内恋愛をし、すんなり子供を授かり結婚した。30年の住宅ローンを組んで購入した勝どきのタワマンは憧れの虎ノ門ヒルズと比べたら格段に安く、それでも父が内装を厳選しフルオーダーした群馬の新築戸建てよりは圧倒的に高かった。
このタワマンをミキちゃんが眩しそうに見上げることはないし、私が我が子ミキちゃんが育った幼稚舎に通わせられることはない。我が子は彼女の子に生まれたかっただろうか。Instagramの通知が鳴る。『素敵!でも高層階じゃないの意外でした笑』。窓から見える景色の写真でフォロワーに低層階だと見抜かれた。思わず舌打ちをする。
「液状化リスク大丈夫?」というコメントもきていた。タワマンに住めない女のやっかみだと一蹴した途端に、小さな箱に押し込められた気分になる。この場所でも私の心は晴れないのだろうか。冷蔵庫から白桃ゼリーを取り出し窓に視線をやると、建物の合間を縫って灰色の空が少しだけ見えた。(完)
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