『階層』はプラットそのもの。
昨年は、KAKUTAの桑原裕子さんが作・演出で『甘い丘』を上演した、穂の国とよはし芸術劇場PLAT(プラット)の『市民と創造する演劇』。
私も参加させてもらって、約1か月半、豊橋に滞在したことから、友だちや知り合いができ、豊橋のことを第2の故郷として想っているのですが、
その時の様子等々↓
今年も、つい先週末がその公演日で、昨年の仲間も出るというので行ってみることにしました。
2022年は、先月、チェルフィッチュの岡田利規さんが『階層』という作品を創られるそうだ、というところまでしか情報を入れてなかったのですが、
昨年共演したえがみんのツイートを見ている内に、何が行われてるんだろう?とても興味を持ったのが一番のきっかけでした。
これからつらつら書いていきます。
とても長いよ。
後、作品の内容についてよりも個人の感想に偏ってます。
では、スタート。
私のチェルフィッチュ歴
岡田さんの作品を私は2度観たことがあって、
1つ目は、『三月の5日間』。
これは当時、舞台芸術学院(通称・舞芸)に通ってた時に、同期のむぅが一番好きとのことでそれなら是非と借りました。
……わかんなかったです。
人が常に揺れていて、これまでの演劇と言われるものとは違う、感じる感じないの話以前の、未知との遭遇でした。
そこから時を隔てて、約10年後、彩の国さいたま芸術劇場の周辺で行われた『さいたまトリエンナーレ』。確か、大宮かどこかの街中、雑居ビル地下で再び出会ったのです、というか目的で行きました。
それは『映像演劇』と名が付いていたから、何のこっちゃと思って、観てみることにしたのでした。
その地下の一室は、手前は辛うじて明るく、ここが厨房であるというのがわかる程度。奥は暗くて……とそこに、一人の女性の姿が現れます。スクリーンの中の彼女はひたすら話しているのですが、どうも私には理解できず…、そうこうしている内に去って、またしばらくすると現れる。何だか、映像演劇とはアートなのか?と、帰りの電車で思いました。
この時もよくわからなかった。
むしろ、演劇ではないんじゃないかしら?とまで思ったくらい。
観劇前にトークショーを聞く
そんな私が、前述のえがみんから「トークショーのある日がおすすめよ」と言われ、その日めがけて行った訳で、これは聞いておいていて、とても良かった。
対談形式で、プラットの敏腕プロデューサーの矢作さん、岡田さんとその相棒でプラットでも映像関係のお仕事をしている山田さんに、ご出演されたお二人が登壇されました。
ちょっと日が空いてふわふわしてますが、45分くらいの時間、そこで岡田さんがやりたいこと、言葉の扱いや何故、映像にするのか、特に印象に残ったのは、『階層』を制作するにあたっては豊橋でやるのが相応しいと考えていらっしゃたことでした。
豊橋でやるのが相応しい
……この真意は、観たら、なるほど〜となりました。
上演前に
トークショー後、次の回だったので、その話が頭をふわふわしてる中、ロビーへ。
人数制限があり、定員20名。
20名分の椅子が、あのワクチン接種会場のように用意されていました。整理番号付きで。
必要な人には、貸出のiPadで字幕が読めるサービス、この字幕は市民スタッフさん作成、もあり、一緒に行った去年の仲間のさゆは借りてました。
そして、ずっと待たされる。
きょろきょろしたくなる、したけども。
時間が来て、案内の人が現れるのですが、有無言わせない圧を持った人で、これは演出だと思うのですが、いろいろなルールを言われます。普通のルール、携帯電源切ってよとか、しゃべらないこと、これから一列で着いていくこと……
それがはじまり。
観劇も、物語も。
……ここから本編やテキストの言葉も入ってきますが、記憶したものなので違ってたりすると思いますこと、お許しください……
客席にて
一列になって、行進のように入っていく劇場。プラットの主ホール。『甘い丘』はアートスペースだったので客席も、舞台上も違う。
ロビーと同じように、指定された席に各々座ると、またアナウンスがある。観劇は舞台上、観るのは奈落(舞台下にある空洞)を伝えられる。その他にも注意事項を先程の圧ある言葉で一通り言われる。
舞台上に上がったら、下を覗いてもいいし、覗かなくてもいい。客席に戻ってもいい。
この言葉がちょっと違う風に聞こえたので、印象に残った。
と、幕が上がる。
舞台上では柵があり、その下を覗き込んでいる人たち。みんな、様々な格好で観ている。ああ、ああいう風に観るのが……ドキドキ。何があるのかしら。と、声が聞こえ始める。
あなたはそれを信じなくてもいい。
信じてもいい。
階下では何が始まっている。
幕が一度閉じ、
そして、私たちも舞台上へ。
舞台上へ
この時点ですでに不思議。
出演者の姿は舞台上にはなく、お客さんが舞台に上がる。
一列で、舞台に上がると、正面から見えてた柵の前が空いていて、光が満ちている。
みんな、柵の後ろへ行くように指示を受け、それぞれ好きな場所へ。
位置が決まると、緞帳を降ろされる。
とても静か。
静寂に包まれるとはこのことか。
下には、7枚のスクリーンがあって、しばらくすると、ダンスのように動きながら女性が現れる。
周りにも人がぞろぞろ現れる。
上から覗いている画角、そして、スクリーンは繋がっているのではなく、間隔が空いているから下の人が動くと、水の中に、ちょうどプールに入っている人を見るような感じ。
岡田さんの演劇特有の、無機質な、でもその人そのままの声で言葉が発せられる。
どうやら、下の人は自ら選んで下にいる。
下は上とは違う、着てるものも名前も何もかも捨てて、ここにいる。
来ていたものは、燃やして穴に、上に繋がっている穴に捨てる。
そうなる前に、みんなは儀式を受けて、選んで目の前にいる。
各々、抱えてる想いを言っていくのだが、どうも対象が上の人たちへの言葉なのだ。
演劇って、舞台上の人たちの会話ややり取りを観るのが一般的だと思うけど、
この『階層』は下の人たち同士のやり取り、上の人への訴えのテキスト。
みんな、少し揺れながら、言葉を発していく。
私、びっくりしたのが、昨年共演したしんさんの言葉がとてもキレイで、伝わってくるものがあった。
しんさん、どうしちゃったのさ。
えがみんの言葉も去年とは違う、涼やかに透き通っている感じ。かなり苦戦していた様子はツイートで感じていたけど、ご自身も言われてた通り、去年とは正反対のことをやってる。
去年が真夏の太陽とすれば、
今年は水の中、か。
どうやら…
去年の仲間の変わりようや、ある場面でヒヤヒヤしたりぐらいで、心は平常心。
これも普通の演劇とは違う、一般的なものは感情のやり取りを観せられるので、時に心が七転八倒する。
が、この『階層』に関してはテキスト上ではそういう表現があっても、役者は感情を切り取って言葉にしている、これは岡田さんの意図。
トークショーで話されてたけど、
感情はテキストに書かれているから、役者はそれを表現する必要がない、とのこと。
また、映像にしてるのは、役者が周りの出来事に影響を受けない為。
『階層』は永遠性を表現する為にこの要素が必須とも。
普通の演劇は影響をお客さんにも与え、それを受けて、感情というか、空気みたいなものをやり取りする醍醐味があって、私はそれが好きなんだけどなぁ……
岡田さんはこうも言われてた。
『市民と創造する演劇』のソウゾウは、【想像】の方なんですけどね。
って。
それらを踏まえて観ていく内に、なんかその話されていた意図というものが感覚的にわかってきた。
この上下の構図は、下の人が演劇、表現をしている人、そして、上の人が観ている人たち。
この場では、この2つの層しか感じられないけど、想像すれば、この階層は幾重にも重なっている。
下に行くには儀式を受ける。
ってのも、私たちが受けたアナウンスのことだとしたら……
ひらめいた!
ウロウロする方が楽しい
これって、下の人を観るんじゃなく、上の人たちを観た方がおもしろくねぇ?
始まってすぐ位から、柵の場所や見える位置を変えたりしてた、これは好奇心からずっとやった。だけど、さっき書いたような意図と、
舞台上に上がる前の言葉に、
舞台上に上がったら、下を覗いてもいいし、覗かなくてもいい。客席に戻ってもいい。
この客席に戻るというのは、柵から離れて眺めても良いよ。ってことだよね、と思った。
だから、離れて観ることにした。
と、そこにはこれまでの演劇での観客とのやり取りよりもスマートで、観ている人たちの空気がテキストには書かれてない言葉として立ち上がってた!
テキストで間(言葉が敢えて書いてない所)になっている所が、観てる人のレスポンスシーンとなってたのです。
この時点で、下の人が話す内容は上で受けて来たこと、それが嫌なことだったりのネガティブな内容で変えようと訴えているのだけど、間がとても多くなっていて、
その度に引いて、観ている人を観ると、すごいおもしろかったの。
下の人の話に関心がある人たちは除き込むように観ているし、わからなくて飽きてきている人は……って感じで観ているすべてが、
それぞれの反応がテキストに応呼しているように、設計されているって言い方が相応しいのかな。
これは観ている人たちはもう物語の人になってる、無自覚に。それはとても贅沢で、貴重な体験。
去年、私もいろんな人を巻き込みたくて企画したこともあったから余計に、すごい!!ってなって、ワクワクしていた。
こんな素晴らしいことを実現する人がいるのか?!
出演した役者さんたちは、自分たちが何をやっているか、わからないってなるのは当然。本当の主役は観客なのだから。
だけども、このことに気づいている人は何人いるのかなって?
私は下の人たちの様子よりも、こちらの様子を観る方がおもしろくて、行ったり来たりをしていて、観劇後に「めっちゃ動いてたって報告が来てます」と去年お世話になったプラットスタッフの伴さんに言われる位、ウロウロしてた。
終焉 〜プラットの物語〜
物語の終焉は、楽園からの追放の場面から始まる。
下の人たちにとって、下の世界は楽園なのだけど、それが嫌と言い出す子が現れ、下の人たちはその子を始末、つまりは上に通じる穴に落とそうとする。
その子は言う、
上の人と同じことをしてどうするの?
この言葉を聞いて、岡田さんは『演劇の純粋性』を表現したいのかなって。
演劇って、年齢も、職業も、立場も関係なく、等しく交わって関わる。
そこには差別も偏見もない、純粋に楽しむ気持ちだけがあって、
それって、プラットが取り組んでいる『市民と創造する演劇』のことだよねって思った。
というのも、この取り組みは2014年から始まって、2020年の今年で8年目。
これは矢作さんが選んだ作・演出家さんを招いて、市民が役者として舞台に上がる。
役者まではいかいけど、舞台に関わりたい人たちには市民スタッフとして活動する道もある。
そして、プラット自体が開かれた劇場で、豊橋市民の憩いの場、ロビーには高校生が勉強してたり、ご婦人がいたり、成人式もプラットでしてて、私が観に行った日には翌日からアートスペースで行われる生け花の準備がされていたり……
劇場って、プロの人たちを招く場としての認識しかなかったけど、ここに来て、こういう使い方もあるんだなぁと感心した位、活用されている。つまりは、人が集まりやすい場ともなっている。
ここに集まる人すべてが、演劇をする訳ではないけど、将来関心を持ったり、また友人知人が出演者となれば、みんな、見に来ると思う。
そして、ここで役者をしてる人たちはみんな、うまい。
元々劇団や役者として活動してる人もいるけど、プラットが育てたと言える人たちもいる。『市民と創造する演劇』でた。
そこで出会った人たちは仲間であり、前述したハラハラしたことも試写の時にみんなで笑ったらしい。
そういう演劇で笑い会える仲間ができるのも尊いことだと思う。
豊橋の演劇を囲む人の螺旋を、舞台にしたのが『階層』。それはプラットそのもの。
そうして下の人々は散り散りに散っていく。
そして、またあの言葉が聞こえてきた。
あなたはそれを信じなくてもいい。
信じてもいい。