ー安楽死を宣告された猫との35日間ー 1日目
BAKENEKO DIARY /DAY 1. 事故発生
娘のSを塾に送って、帰ってきた。月曜日の夜7時頃。もうすぐそこが家という交差点を左に曲がると、前の車が減速した。その前に、白の軽自動車が1台停まっている。しかし先には、遠くの方にヤマト運輸のトラックが停車しているだけで、なぜそこで軽が立ち往生しているのかわからない。
軽の運転手さんが降りてきて、前の車の人に話しだした。身振りから、何かをよけたいから、もう少しバックしてくれと言っているようだ。この時はまだ想像していなかった。前の車が発車した後、視界に何が飛び込んでくるのか。
前の車が動いて、“何か”がヘッドライトに照らされて浮かび上がった。その瞬間、「嫌だ!」と思った。
現実だと認めるのは嫌。そんな気持ちだった。そこにいたのは猫。前後の脚をそろえ、小さくなってしゃがみこんでいる。ぐったり脱力はしていない。けど… 目がどこも見ていない。 口をわずかに開けて血を流し、ただ呆然と虚空に視線を送っている。目の脇からも血。ひと目見ただけで、普通じゃないのは明らかだった。
人相、ではなく、猫相が違う。11月末の夜7時はすっかり暗く、ミータに似たキジトラの野良猫は近所に2匹いる。そこが家の前の道路だとしても、信じたくなかった。
ほとんどパニックでハザードランプを点けて、そのまま路上に車を停め、猫に駆け寄った。身体つきはミータに近い。首に手を伸ばすと、首輪に触れた。
「………」
ミータだ。認めるしかなかった。交通事故に遭い、動けなくなったところに軽自動車が来たが、幸運なことに、気が付いて停まってくれたのだろう。
そのまま道の真ん中でうずくまっていれば、また車が来て、今度こそひかれてしまう。夫のPが家にいるはずなので、玄関に猛ダッシュしてドアをたたく。出てこない。インターホンは道路脇にある。もう自分でミータを移動させる方が早い。「落ち着け、落ち着け」とつぶやきながら、ミータの元に駆け戻り、そっとだきあげると少し抵抗した。生きてる! ミータを玄関前におろすと、猛ダッシュで車に戻り、車を車庫に入れる。震える手で鍵穴に鍵を突っ込んで、ドアを開けて叫んだ。
「ミータが大変! 事故!」
事実を受け入れたなら、後は動くしかない。診察券は。あった。近隣では一番大きな動物病院。以前は救急対応もしていた。8年前に不妊手術だけ受けて、それからご無沙汰しているけれど、あそこがいい。電話で事情を話し、診察してもらえることを確かめると、赤いブランケットにミータをくるみ、Pの運転で病院に向かった。
車に乗り込むと、ミータは何度かうなり声を出した後、静かになった。
「ミータ、大丈夫だよ。今、病院に行くからね。がんばれ」
声をかけることしかできない。Pが車を飛ばす。こっちまで交通事故をおこしたら大変だ。
「あぶないから、ゆっくり行って」
「うん」
そうはいうものの、スピードは落ちない。
絶対に死んでほしくない。Sを塾に送る前に、ミータの姿をちらっと見たよな。昼間は植木屋さんが庭木の剪定に来ていて、ミータは作業をのんびり眺めていたっけ。いきなりお別れなんて無理だ。こんなことになるなんて、1ミリも予想していなかった。ダメだダメだ。
でも同時に、頭にはヘッドライトに照らされたミータの姿も浮かんでくる。あれを見て、大丈夫だなんて言い切れない。たぶん今、ミータは人間でいうところの意識不明の重体だ。
Sを送るために家を出てからまだ1時間もたっていない。どのタイミングで車にあたったのかはわからないが、細切れの感情が湧き上がった。
「どうして道路に出た?」
「道路に出るのが、一瞬遅いか、早ければ」
「そこに車が来てなかったら」
「ミータが出かける前に、誰かが声かけしてタイミングがずれていたら」
「いつもは道路には出ないのに」
「他の猫を追いかけていった?」
「ミータのバカ」
動物病院に駆け込むと、まだ診察時間内ぎりぎりのタイミングで、診察待ちの人たちがこっちを見た。私のグレーのパーカーには、あちこちにミータの血。たぶん、悲壮な表情をしていたに違いない。すぐに、獣医師と看護師さんが出てきてくれた。
ミータを見るなり、獣医師のA先生は看護師さんたちに指示した。
「呼吸確保して。急いで」
小柄な男性看護師さんが、「お預かりしますね」と口調はやさしげに、行動はテキパキとミータを抱きかかえて連れて行った。
待合室のソファの片隅に腰を下ろす。
今、できることはない…
頬を張られてあっけに取られているような、そんな気持ちのままで時間が過ぎていく。ただ待つだけだ。
30分もたっただろうか。A先生が出てきて、こちらで話をと診察室に通された。モニターにレントゲン写真を写しながら、まず言った。
「今撮ったレントゲンで見る限りは、背骨とか骨盤に大きな骨折はありません。」
はぁーっと肩の力が抜ける。しかし、喜びそうになっている私にストップをかけるかのように、A先生は続けた。
「でも、交通事故だけは、今後のことはわからないんです。ここを見てください、歯がボロボロに折れてます。鼻の骨も折れてます。舌も割けていて、口の中はひどい傷です。様子からして、頭を相当強く打っているので、脳もパンパンに腫れてるでしょう。このレントゲンではわかりませんが、衝撃で内臓が破裂している恐れもあります。点滴で鎮痛と鎮静の処置はしますけど、今できるのはそれだけ。これから24時間がヤマです。そこを過ぎないと、これからどうなるかという話はできません。」
なんと返事をしたかは覚えていない。A先生にお礼を言って、Pの待つ車に戻る。どうだったと聞かれるが、これから24時間がヤマだと、なぜか言いたくない。
「レントゲンでわかるような大きな骨折はないんだけど… 頭を打ってて、歯が折れちゃって、ひどい状態みたい。危ないっていうか。とりあえず、今夜は様子を見るってことで…」
そのままSを塾に迎えに行くと、両親がそろって迎えに来ていて、しかも暗い表情なので、Sは一瞬で何かを察した。
「おじいちゃんかおばあちゃんに何かあった?」
言葉が出ない私に代わり、Pが答えた。
「ミータが事故に遭って」
途端にSは泣き出した。うえーん。久しぶりに聞く、子供のような泣き声。
「死んでないよ。Sを送って帰ってきたときにお母さんが見つけて、最速で病院に運んだから。きっと大丈夫だよ」
PがSをなだめる。
24時間がヤマだという話はしたくない。でも、大丈夫だとも言えない。Sを安心させたいけど、その後に辛い状況になるかもしれないと思うと、つい、中途半端な言葉が口から出る。
「血がいっぱい出て…舌も切れてて…歯がぐしゃぐしゃで…」
Sはさらに泣く。ヒイヒイ言って泣く。早く24時間が過ぎてほしい。「死ぬことはないです」とA先生に言ってもらいたい。あと23時間たてば、そう言ってもらえる。死ぬかもしれない、という事実を私は家族に知らせたくない。
その夜、普段、自室で寝ているSは、「今日はお母さんと寝る」と言って、私の寝室で一緒に寝た。