池内紀編『尾崎放哉句集』

「咳をしても一人」

尾崎放哉(1885-1926)は成績優秀で鳥取一中から一高,東京帝国大学法学部へ.しかし後半生は一転する.勤めは永続きせず,京都の一燈園,神戸の須磨寺など,各地を転々とした後,最後は小豆島の札所南郷庵に安住の地を見いだして句作三昧の生活を送り,数多くのファンを持つ優れた作品を遺した.

放哉は鳥取出身、旧士族の名家で、一高、東京帝大法学部とエリートコースを歩み、生命保険会社で出世の波にも乗って、ある時期までの放哉の人生行路は、傍からみれば順風満帆そのものに思える。

しかし、一高時代に母方の従妹との熱愛を、近すぎる血縁関係を理由に潰されてから、酒に溺れる日々が始まっていたそうで、ずっと充たされない飢餓を心の内に抱え込んで生きていたのだろう。

その飢餓が、涙のように嗚咽のように溢れ出たのが、放哉の句なんだろう。寂しい、ひとり、というフレーズが何度もリフレインする。

酒で仕事をしくじって、転がり落ちるように死へと急いだわずか数年の間に、“死とつばぜり合いをするようにして”(池内紀解説)放哉は多くの句を作った。その頃の作品がやはり張り詰めた緊張感と、やるせない諦念と、不思議に爽やかな大悟とが混じり合い重なり合っていて、読み応えがある。池内紀も言うようにそこには死を自覚した“末期の眼”がある。

放哉が句を作り始めたのは早く、最初は定型句を作っていたが、一高で荻原井泉水と知り、自由律・無季の新傾向俳句へとスタンスを移す。放哉にとっては、自由律・無季という破格の作法が、どうしても必要だったのだろう。

ところで、自由律俳句は俳句なのか?という議論がある。無季で自由律なものを俳句とは呼べないとする立場もあり、それはそれで納得できる見解だと感じる。

自由律俳句は、定型俳句がなければ成り立たない、謂わば定型句に寄り掛かって甘えている、という批判もある。確かに一理ある。定型句という大きな世界があればこその、自由律俳句という反逆なのかもしれない。

放哉が自由律を選んだのも、定型句という確立された世界に染まれない疎外感故なのかもしれない。定型句の安定した規律に、自分を容れることのない世間や社会というものを重ねていたのだろうかとも思う。なぜ自由律なのか?という問いには、作家一人ひとりのそれぞれの答えがあるのだろう。一律に、こういう理由で自由律を獲る、というようなものではない、ということを放哉の句を読みながら実感し理解した。

最後にいくつか特に印象に残った句を引いておく。

いつ迄も忘れられた儘で黒い蝙蝠傘
蜘蛛もだまつて居る 私もだまつて居る
爪切つたゆびが十本ある

いいなと思ったら応援しよう!

この記事が参加している募集