精神看護学の実習について思うこと

精神看護学という言葉があります。
・・・メジャーな言葉なのかしら?看護の教員をしていると何気なく使うけれど、これも「看護師用語」なのでしょうか。「聞いたこともないですけど」という方も当然いるように思います。そりゃそうですよね。専門分野ってそれぞれ独自の“ことば”を持っているものですし。
 私は今、精神科病院での実習指導をしているのですが、診療科としての精神科で必要になる看護を「精神科看護」と表現します。一方、精神看護という場合は、心の病気を持った人への看護だけでなく、健康な人のメンタルヘルスまでを対象とする幅広い看護、という意味で使われます。その点で、学生さんが体験する「精神科での看護実習」が精神科看護で終わるか、精神看護まで広がるかは教員や指導者の力量にもよるような気がします。
「いい実習をしてほしいな」とぼんやり思いますが、じゃあ「いい実習って何だろう」とも思います。「楽しい実習」や「やりがい・達成感がある実習」というのも答えの一つだと思います。続けざまに様々な領域(病院)で実習をする学生さんにとっては「いかにダメージ・労力を少なく乗り切るか」というのが「いい実習」になってしまうこともあります。「楽をしたい」と明確に思っている学生さんも、中にはいるかもしれません。でも、本当に「楽をしたい人」が看護の勉強をするのかな?楽をするために看護師を目指す??という気もするのです。私が接する学生さんの中にも「無事に終わればそれでいいです」と話す人がいますが、それが本心であることは少ないように思います。「無事に終われる自信がない」「自分は病院に来るだけで精一杯で、それ以上の期待にはこたえられそうにない」と思い詰めるぐらい実習が辛いものになっていたり、それぐらいゆとりがない状況に陥ってしまったりしていることが根本的な問題であるように思います。「そんなことでは看護師として(社会人として)やっていけないぞ!」と思う気持ちは私の中にもありますが、学生さんには学生さんの苦労もあるのだろうな、と推察します。
 「最近の若者は!」という言い方は5000年前の古代エジプトの遺跡の壁画にも書いてあったそうですが、大学で常に「最近の若者」と接している身からすると、「最近の若者は頑張っているな。でも不器用だな。そして真面目だな。ある意味、素直だな」なんてことを思います。私が接していない学生さんが「若者の全て」ではないのは十分に承知しているのですが。でも、私が学生だったときには今ほど情報多くなかったし、今よりものんびりするのが楽だったようにも思います。電車に乗っても歩いていてもスマホを見ることが出来てしまう環境は、それなりにストレスフルだとも思います。ましてや多感な時期に“コロナ禍”を経てきた学生さん達には大人には想像できない思いもあるんだろうと感じます。

そんな学生さんたちと作り上げる「精神看護学実習」。
実習生を受け入れてくれる病院の皆さん、何よりも未熟な学生が受け持つことを許して下さる患者さんには本当に感謝しています。教員は実習のサポートをするのが仕事、と思っているのですが、学校で教えたこと(私が教えてつもりになっていること)を、もう一度思い出して、実際に行動に結び付けて理解する。この「なるほど!」というアハ体験(ドイツの心理学者カール・ビューラーが提唱した概念で、理解した瞬間やひらめいた瞬間の肯定的な感情を伴う体験)が得られたときは、私も学生さんと一緒に嬉しくなっちゃうものです。もちろん、簡単に「わかった!」に至れるわけではありません。戸惑いや迷い、悩みなどを経て気付く・納得する瞬間を待つ・・・この時間経過がワクワクするのです。
とはいえ、私が先走ってしまったり、状況が変化してしまったりでスッキリできないことも多々あります。でも、精神看護という領域だからこそ、人と関わることの奥深さや大切さ、難しさを知ってほしいとも思うのです。昔、看護の先生や一般科の看護師さんからは「精神科って、話をするだけなんでしょ?」なんて言われたこともあります。なんだか寂しい気持ちと腹立たしい気持ちを感じたのを思い出します。確かに、ある一時点だけを切り取ってみたら「話をしているだけ」に見えるかもしれません。でも、その見え方・捉え方に「慮りが浅いですなぁ(冷笑)・目が悪いんでっか⁉・何言うとるん!!」と感じる自分もいます。話をすることがいかに大切か、どんな風に話をするか、そこまで考えて発言してくださいよ。その「“話をする”に看護師は全集中するんですよ。むしろ、自分が話すのではなく全集中で聴いたりもしますよ」なんて秘かに胸を張ることもあります。
自分が思っていることを話せる人がいる、自分の考えを言っても否定しないで聴いてくれる人がいる。それだけでも、気持ちが前向きになれるように思うのです。だから、学生さんにも少しでも「話をすること、話を聴くことの大切さ」を感じてほしい、と思っています。とはいえ、二週間の実習の中で学生さんの気持ちを開き、少しでも学生さんに信頼してもらえるようになりたい、と私はいつもヤキモキしています。「学生さんが患者さんを看護するように、私は学生さんを看護したい。」そんな言い方をすると、かっこよすぎますかね(笑)。

精神科には、精神科救急から精神科療養病棟それぞれの病期に対応した病棟があります。そして開放病棟と閉鎖病棟の別、認知症病棟や嗜癖・依存(アルコール使用症や物質使用症)といった疾患の別など、様々なマトリックスを描けるバラエティさがあります。また、病棟の中にも多様な患者さんがいること、同じ疾患であっても状態や病状、生活背景なども人によりさまざまです。「個別性」という言葉に集約してしまえばそれまでなのですが、素の学生さんだったら「ありえない」と表現するような状況が世の中にはいくらでもあり得ている訳で、それらを自分と切り離さずに、自分のどこかで繋がっている存在として認識してほしいと思っています。ちなみに、昭和の頃には「親が決めた相手と見合い結婚するのが普通だったことだって珍しくなかったんだよ」と学生さんに話したら「えー!好きな人と結婚するのが当たり前じゃないんですか?」と驚いていました。平成に生まれ令和を生きている学生さんにとっては、“考えたこともないこと”もたくさんあるのだと感じました。でも、その後に「今度実家に帰ったら、おじいちゃんやおばあちゃんに昔のことを聞いてみます」と言ってくれたので、そうなったら嬉しいな、と感じました。患者さんの生活歴を読ませていただくと、色々な感情が沸き上がります。「自分=健康、患者さん=病気」という雑な認識は持ってほしくありません。

「患者さんの中に自分と同じ健康な部分を見つけ、自分の中に患者さんにも通じる病気の部分を見つけてほしい」。私は実習指導に当たり、そんな風に思うことがあります。
「精神科の患者さん」は「特別な人」ではない・・・と表現すると、少しチープな感じというか、「特別か特別じゃないかでいえば、異なる部分もある。特別なところもある。でも、患者さんの全てが特殊なわけではなくて、本当は病気ではない部分が大きいんだよ」と伝えたいのです。実際に、そうやって言葉にするタイミングはなかなかないんですけどね。「特別扱いしない」「他の人と同じように接する」という言葉は、お題目としては理解できますが、その言葉に“逃げる”ことで自分自身が持っている先入観や偏見、スティグマに向きあわないのも不誠実であるように思うのです。自分と他人は違う存在だし、その人の全てを理解できるわけではない。そのうえで、「ひとを理解する・自分を理解する」琴の大切さや尊さを感じてほしいと思っています。

これだけ多くの人がメンタルに不安を抱えていたり、何らかの病気を抱えながら生きていたりする現代にこそ、精神看護学の存在意義があるんだぞ!と自分自身に気合を入れて病院実習に来ています(笑)。

*このコラムは、筆者の個人的な考えであり、所属組織や当法人の意見を代表するものではありません。

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