陸上競技の愛し方
関西学連のnote、第5走を務めるのは立命館大学の川元莉々輝さんです!
勝者は「キング・オブ・アスリート」と称される十種競技を専門とされる川元さん。なんと十種のうち、100m、走幅跳、400m、110mH、棒高跳、やり投の6種目の自己記録は、2023年に行われた近畿インターハイではそれぞれの単独種目の決勝に進出し、また入賞に相当してしまうほどの記録です。
日本IC2連覇など輝かしい実績を持ち、昨年行われた記念すべき第100回関西ICでは大会プログラムの中央を飾った川元さん。
「実は陸上競技はそこまで好きではないんです。」
こう語った彼を何が突き動かすのか、お話を伺いました。
1.陸上競技との出会い
川元さんが陸上競技と出会ったのは中学1年生、部活動選びの時でした。小さい頃から様々なスポーツを習い事としていた川元さん。小学校の休み時間ではバスケットボールを楽しんでおり、本当はバスケットボール部に入りたかったと、当時を振り返って語ってくれました。しかし、バスケットボール部の体験入部の際の練習メニューがとてもキツく、入部を躊躇っていた時に目に入ったのが陸上競技部でした。部内の人間関係が良好で、とても楽しそうに見えた上、川元さんの姉が先輩と知り合いだったことから親しくしてくれたことが、陸上部への入部の決め手だったそうです。川元さんにとって、入部の際のありふれた「なんとなく良さそう」がそのまま陸上競技への出会いと直結したそうです。
陸上部では、最初は100mの練習しており、次第にハードルをやってみたり、走高跳に挑戦したりと、徐々に種目の幅が広まったと語ってくれました。混成競技を始めたきっかけは、顧問の先生からの勧めだったそうですが、それに納得しなかった川元さん。混成競技をやりたくないあまり、当時のクラブノートでの目標は「走高跳で全国大会に出る」でした。しかし、顧問の先生も譲らず「お前は才能ないから四種競技や」とお互いにバトルを続けていました。競技で見返してやろうと走高跳の練習を頑張った川元さんは、本当に走高跳で全国大会(ジュニアオリンピック)に出場してしまいました。なんと四種競技でも全国大会(全日本中学陸上)に出場し、結果として顧問の先生とのバトルは並行線のままだったそうです。それでも、今ではその時に混成競技を勧めてくださった顧問の先生に感謝していると語ってくれました。
2.競技力のためではなく人間関係のための部活
部活動自体は楽しんでいた川元さんでしたが、特別競技そのものには興味がなかったそうです。そのため、競技力の向上のために部活動に取り組んでいたわけではなく、ただただ中学生生活を楽しむための部活動でした。当時を振り返りながら「朝練はよくサボって怒られていました。笑 練習もキツいメニューは裏でサボりながら、楽で楽しいメニューは友達と喋りながら、どちらかというと競技力ではなく、友達との関係を楽しむためにグラウンドに行ってました。笑」と語ってくれました。川元さんにとって、部活動は友達や後輩との会話の場であり、競技に打ち込む場所ではありませんでした。なんとこれは現在でも変わることがないそうです。「十種競技の選手であるだけで、ストイックなイメージや陸上大好き人間といったイメージを持たれるけれども決してそんなことはないです。笑」とはにかみながら心の中を明かしてくれました。ポテトチップスなどのスナック菓子は大好きだし、マクドナルドも食べて、飲み会も全部参加します!とごくごく普通の大学生の生活を営んでいるそうです。
そんな川元さん、実は
「なんかもう陸上いいかな」
と高校進学の時は、陸上競技をやめようと考えていたそうです。しかしながら、それと同じくらい嫌だった高校受験。元々は勉強もそこそこできていた川元さんですが、全日本中学陸上に集中するために学習塾を途中で辞めてしまい、そこから学力が低下の一途を辿っていました。全国大会で入賞する実績を持っていた川元さんはスポーツ推薦での進学を選び、「モチベーション60%で練習もせずに高校に行きました」と当時を振り返ってくれました。結局、高校では陸上競技を続けざるを得なくなってしまった川元さんは、高校でもそこそこ練習を頑張ってインターハイでも入賞。その実績を持って立命館大学へ進学することになりました。
大学進学の時には、高校進学の時以上に「陸上競技をやめてやろう。少なくとも十種競技はやってられん!」と意気込んで進学したそうです。当初は白々しく跳躍練習に入り、三段跳をやります!という雰囲気で始まった大学生活。今の仲間だから4年間やってくることができた十種競技の2年目で、大学陸上生活における大きな転換点を迎えることになりました。
3.連覇の重圧
川元さんの大学1年目は怪我に悩まされる1年でした。しかしその分、大会への出場を早めに切り上げ、かなり長めの冬季練習を積んだそうです。同期の栗林さん(立命大/400mH)との出会いもあり「好きではなかった陸上を少しは好きになれた。練習を思いっきりすることができた」と当時を振り返り語ってくれました。そしてその効果が早くも大学2年目で現れ始めました。
2021年に熊谷で行われた第90回日本IC。十種競技に出場した川元さんは、なんと10種目中8種目を自己新記録で終え優勝しました。ランキング23位からの彗星のごとく現れた川元さんに衝撃を受けたことを、筆者も強く印象に残っています。2年生ながら学生のキング・オブ・アスリートとなった川元さん。この優勝は「大学4年生で優勝できれば」と考えていて、思いがけない優勝だったと語ります。この経験が3年生以降の川元さんの、陸上競技への向き合い方を大きく変えることとなりました。
「競技として向き合う以上、現状維持かもしくは前進。
後退はしたくない。大会記録を更新できる力は自分にはない。
少なくとも現状維持で2連覇を。」
その言葉に、当時の川元さんがどのような思いで2022年の京都での第91回日本ICに挑んだのかが汲み取れました。しかし、2022年の川元さんは絶不調。今までにないほどストイックに練習と向き合い無理やりコンディションを整えたそうです。2年生の時は全くしていなかった食事制限も、日本ICの3ヶ月前から実施。不調ながらも小さな努力の積み重ねで、結果としては2位と160点差で貫禄の2連覇を達成されました。ただ、根本として陸上競技そのものではなく楽しい部活が好きな川元さんは、2連覇に対してそもそもここまで思い詰めて、辛くなることもなかったのではないかと当時を振り返りました。というのも、2年生で初優勝した当時は、有力選手達が怪我や体調不良の中で万全ではなかった中での優勝ということもあり、また再現性もなかった8種目自己ベストという、思いがけない幸運に恵まれた結果でした。
「最後の年くらいは楽しくやろう」
そう思えたことが川元さんを更なるステップへと導きました。
4.部活だからこそのもの
川元さんの実力だと、もちろん日本選手権やゴールデングランプリへ出場することができました。しかし、そこまで魅力を感じなかったそうです。先述の通り、川元さんは陸上競技そのものに興味はなく、部活動だったからこそ本気で向き合えました。「お酒そのものは好きではないけど飲み会は好きという感覚に近いかもしれない」そう語ったこの気持ちを、2023年の立命館大学の主将として部活動に向き合ったこの1年でより強く感じたそうです。川元さんにとって、陸上競技はあくまできっかけに過ぎず、部のみんなでひとつのインカレに向けて全力で一致団結して頑張れる、この感動があれば十分だったのです。
「このメンバーでインカレに向かうのであれば、
究極は陸上競技である必要はなかったのかもしれない」
日本選手権という夢の舞台へ立つ権利を得ても熱が入らなかった川元さん。それはやはり部活動としてではなく、個人競技として参加する大会だったからでした。「日本選手権は大学を卒業してからも出ることができる。大学生のうちには大学生でしかできないことをやりたい。」という強く熱い想いを語ってくれました。
2023年、川元さんが主将として、また部として全員が総合優勝と男女アベック優勝を目指した第100回関西IC。記念大会ということと、感染症による規制の緩和を受けて解禁された全体応援で、とても熱い気持ちになったと語ってくれました。川元さんは種目の優勝は成し遂げたものの、大学としては総合準優勝と、関西大学に軍配が上がりました。それでも、
「もちろん競技をする上で実力も大切ではあるけれども、
それ以上にそれまで一緒に練習して、大会で同じ方向を向いて頑張った
仲間との思い出の方が大切であるし、好きです」
と熱く、部活とインカレの良さを語ってくれました。
5.離れるからこそ見える大切なもの
部活の中で、楽しく陸上競技と触れ合ったこの1年間は、競技生活にも多少なりとも変化が現れました。前年の辛かった、ストイックにコンディションを整える方法ではなく、楽しんでコンディションを整えるようになったと教えてくれました。「どれだけ身体のコンディションが良くても、心のコンディションが伴っていなければ意味がない。持論として心の調子がいい時は総じて身体の調子も良かった」という経験から、ストイックになる期間を3ヶ月から1ヶ月に短縮して挑んだ第92回日本IC。ストイックになる期間を短縮したことで、学生最後の夏を謳歌することもでき、身体もとても好調だったと言います。
川元さんは1種目目の100mで自己ベストを更新、その後の走幅跳と砲丸投でも自己ベストに迫る好記録で、3連覇へ向け幸先よくスタートしました。しかし、1日目最後の種目である400mにおいてアクシデントが川元さんの身を襲いました。右足ハムストリングスに走る激痛。思いの外、最初の100m自己ベストのダメージが来てしまいました。まさに好調と怪我は紙一重。競技継続はままならない状態でしたが、種目によって途中棄権をしながらもなんとか最後の1500mまで競技を継続。しかし、全てを出し切って終わりたかった川元さんは日本ICの会場に大切なものを置いてきてしまった、まだインカレを卒業できていないと言います。
「あんなに調子良かったのに」
取材中のこの一言が当時の川元さんの気持ちを体現していました。
川元さんは日本ICが終わった時にふたつの決心をしていました。ひとつは、日本ICで忘れてきたものを必ず必ず取りに行く事。そしてもうひとつは、そのために1年間休学をし、その後の1年で留年生活を送るというもの。そしてその休学の1年間は一切競技会には出場しないということでした。そのためにすでに書き上げていた卒業論文を敢えて提出せずに、卒業をしないという選択をしました。
というのも川元さんは、元々競技自体にそこまで魅力を感じていない、そして大学の同期が川元さんを突き動かしていたという、部活ありきの競技生活でした。同期が卒業してしまい切磋琢磨する仲間がいなくなるこのタイミングで、敢えて競技から一歩下がる決意をしたその理由を「もちろん怪我で競技が満足にできないということもあるけれども、それ以上に陸上競技をやりたくなるように仕向けるための焦らし期間なんです。10年間頑張ってきたから自分にとって必要な期間なんです」と語ってくれました。好きになるために敢えて離れてみる。これは川元さんにとってとても効果覿面だったようで、
早速効果が現れていました。笑
この投稿を振り返って「6割、みんなと陸上してぇ。4割、陸上が好き。」だと語ってくれました。川元さんにとって陸上競技は愛情表現の手段であるのだと筆者は感じました。
6.見据えた未来図
川元さんが次に競技会の舞台に帰ってくるのは、2024年の1年間お休みをして、2025年の京都ICです。その後、関西ICと続き、ひとまず2025年の目標は「不完全燃焼で終わってしまった日本ICを全力でやり切ること」だと語ってくれました。しかし、川元さんにとってそれはあくまでインカレを卒業するための卒業式であり、陸上競技を続ける上で次の明確な目標は更なる高みにありました。
「競技成績を収めたいという理由ではなく、
応援してくれる家族などの人へ恩返しの気持ちを込めて
オリンピックを目指して陸上競技と向き合う」
川元さんは今年の1年間で陸上競技への英気を養い、部活から離れた陸上競技そのものへ挑戦します。学生の日本一を経験した川元さんは、次の舞台を世界に見据えていました。
「自分でできるところまで挑戦したい。そしてそれの結果がどうであっても絶対にそこから学ぶことはある。無理だったら無理だったで全力でやり遂げたならば「オリンピックは世界最高峰のすごいところ」と語ることができる。挑戦せずに後悔するよりも挑戦して後悔した方が良い。挑戦したものにしか語れないことがある。日本ICで2連覇したという既存の実績に甘えるのではなく、全力でチャレンジしたその結果を語りたい。すでに人生の中のビジョンにオリンピックは見えている。」と将来を力強く語ってくれました。
そのためにも部活に依存せず、純粋に結果や競技力を求めるための姿勢が必要となります。やってみないとわからないことはやってみる、試行錯誤しながらその方法を手探りで模索していくそうです。
川元さんにとってのこの1年は、きっと陸上競技に対する向き合い方が変わって行く1年となるのではないでしょうか。
キング・オブ・アスリートの挑戦はまだまだ始まったばかりです。