50年は早い。


少し前、何かで老後の生活には『きょういく』と『きょうよう』が必要だと読んだ。

これは、「今日行くところ」と「今日する用事」のことで、どこかへ出かけて何かをこなし、人とコミュニケーションをとることで、健康を維持できたり、社会的な孤立を防いだりする効果があるらしい。

たしかに、長い間つとめた仕事や家事とかを終えた後、やることがなくなってただ時間がある状態は、肉体的にも精神的にも良くないだろう。


これを読んでいて恐ろしかった。これは自分にも言えてしまう。50年は早い。


大学2年生、コロナ禍、一人暮らし、夏休み、バイトも休み、となると生活のベースになるものがなくて、ひたすら思い通りに生きていけてしまう。

基本的に全てが自分の思うままである。

起きる時間、食べるもの、見るテレビ、寝る時間。なんとも張り合いがない。楽だしそれなりに楽しいのだが、なんというか、『生きごたえ』みたいなものが圧倒的に欠けている。

人生を変えるような刺激的な体験とかそういうのを求めているわけじゃない。

寝るときに何となく1日を振り返って、今日はどこへ行って、何をして、どうだったかみたいなものが思い浮かぶような体験がないのだ。
本当に何もなくて、そのことに頭を悩ませ、眠れなくなり、そしてまた寝坊して、を繰り返しているだけで気がついたら時間が経っている。


若林さんが20代を振り返って「牛丼食ってただけじゃねえか!」と思ったらしいけど、本当にその感じに近いんじゃないだろうか。いや、牛丼食いにすら行ってない。


流石にこのままじゃまずいと思い、予定を立ててみるのだが、1人で行動する方が楽だし、そもそも気軽に誘えるような友達(とこちらが一方的に思っている人)を持ち合わせていないので、基本的には自分主体の予定になってしまう。

そうなると、持ち前の考えすぎリスクヘッジと、何よりのなまくらっぷりが発動してしまって、雨が降ったら嫌だなとか考えた結果、「基本的に動かせる用事=もし実行しなくても誰にも迷惑がかからない用事」しか入れなくなってしまった。


何でこんな体たらくになってしまったんだろうか。

多分、元からの弱かった社会性と、行動するのに使う筋力みたいなものが、コロナ禍を経てより落ちてしまったのと、行動するときには遅刻とかしないで完璧に遂行したいという生来の神経質さがストレスになってしまったからだと自己分析している。

いや、これ言い訳だな。ただだらしないだけです。


そんなこんなでちょっとずつ、本当にちょっとずつ『きょういく』と『きょうよう』を生活に取り入れている。

今まで当日支払いだった映画はクレジットカード予約にして損得勘定で行かなきゃいけない状況を作り出すようになった。面倒だけどそれを超える体験ができるならそれでいいと思えるようになりつつある。


過度に他者に拘束される生活は面倒だけど、「この時間は他人と共有している」という意識とそのプレッシャーが適度にかかっているとき、それは『生きごたえ』のある生活になるんだと思う。


ちなみにこのブログもその一環で、他者の目線を意識するために序盤で「火・水にあげます」とか書いたんだけど、ネットを通してだと目線を意識することは難しくて、ご存知かもわからないが、最近は木曜日に更新している次第である。

もっとちゃんとやるために、誰か私に直接会って注意してほしい。

やっぱりそれは怖いからやめてほしい。


今日はギリギリ水曜日ともとれる時間に更新できた。


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