何でおバカアイドルを見てこうなる人生なんだ
皆さんは50メートルを何秒くらいで走ますか?
その記録に自信はありますか?
これ、結構その人の人生において重要な質問なんじゃないかと思っている。
小学校1年生のとき、人生で初めての体力測定で、自分は運動能力が周りよりも劣っていることを知った。
絵や音楽の芸術的なセンスのなさは幼稚園の頃から何となく自覚していたが、運動もダメ。要は「特に何もない人」であることを知らされたのだった。
ショックだった、というか、自分は一生「特に何もない人」で生きて死ぬのだと悟り、この後の人生残り90年くらいめちゃくちゃつまらなそうだと思った。
そんな時、先生が教壇に立って「勉強を頑張りましょう。」「勉強を頑張って頭がいい人になりましょう。」と言っていた。
社会が先生を通じて、「勉強ができれば社会である程度の幸せを保証してあげますよ。」と呼びかけてきている気がした。
他に特別な才能がない人間は、勉強を頑張るしかない。それが社会の評価の基準になっているから。だから勉強をしなさい。
小学生の自分は何の疑いもせず、それを受け入れた。というか、他に才能がないから受け入れるしかなかった。
人間、日常的に関係を持っているコミュニティの中で、上位10人くらいに入れる特技みたいなものがあれば、ある程度自信を持って生きているんだと思う。
その特技を自分の軸にして、できないものがあってもそこにいけば何とかなる!という保証みたいなものが生まれるから。
現に、宿題をやってこないでクラスの前に立たされて叱られるやつは、運動ができるやつばかりだった。
きっと彼らには、「自分は勉強ができなくて(しなくて)怒られても、運動ができるからそっちを頼りにしていけばいいや」という、安心感があったのだろう。
逆に言えば、自分の正体が「特に何もない人」であることを知っていた、「勉強が得意」というガワを身に付けなければ淘汰されてしまう恐怖を感じ続けていた。
その恐怖に追われて、宿題をきちんと出し続けた。(怒られるのが怖かったっていうのもあるけど)
6年間毎日宿題を出し続けていたら、地元ではある程度名の知れた中高一貫校に中学受験で入ることができた。
中学に入ったら、自分より頭のいい人間がたくさん集まっていた。
根っからの頭がいい人間が集まる場所において、急作りのはりぼてみたいな学力でやってきた自分は歯が立たなかった。
また「特に何もない人」に戻った気がして怖かった。
学校生活においては、何の悩みもないのに不登校になりかけたくらいだった。(自分でもうまく説明できないし、しないので、周りはすごく困惑していた。)
とりあえず真面目に授業を受け続け、「真面目なのに勉強ができない人(特に何もない人)」になることで、プライドを保つことにした。
勝てないとなったらわかりやすく腹を見せるタイプのせこい人間なのだ。というか人間そんなものでしょ!?
結果、真面目に授業を受け続けたことで、効率は最悪であったものの、ある程度まで勉強はできるようになり「真面目だから何とかなっている人(特に何もない人)」になり、高校を卒業した。
(その頃には社会の評価軸が「発想力」とかになっていた。社会、流石に強烈すぎる。)
そんなわけで、必死に勉強にすがりついてきた人間だから、テレビで「おバカアイドル」を見るとやるせない気持ちになってしまう。
もちろん「ヤっている」部分はあるのだろうけど、
「九九ができない」「英語で曜日を言えない」
それをその時の「売り」にして、人気者になっているのを見るととんでもなく絶望してしまう。
「勉強ができない」でも、顔がいいという圧倒的な軸で生きていけている。
「勉強ができない」でも、カリスマ性があるから生きていける。
小学校2年生の時、休み時間に先生の元へ行き、九九をひとつの段を暗唱できるようになるごとに、九九カードに動物のシールをもらえるというシステムがあった。それには「来週の火曜日に鹿のシールを貰えない人は居残り」というようなノルマが課せられていた。
そのノルマが発表された時、自分は、鹿の5段階くらい上のパンダのシールをもらっていた。そうじゃないと社会に見捨てられる気がしたから。
そんな時、所謂おバカアイドルの人たちはきっと鹿のシールが貰えなくても気にしなかったんだろう。顔がいいから。カリスマ性があるから。
テレビでそういう人たちが活躍しているということは、自分がやってきたことは、
「特に何もない人が」
「何もないから」
「仕方なく選ぶ」
「効率が悪くて」
「遠回りの」
「最低のルート」
だと言われているような気になる。多分そうなのだろうけど。
それはもう、自分という種と、より優れた種との、個体のはっきりとした差を意味している。
悔しいし、恥ずかしいし、腹立たしい。
あまりにも不条理すぎる。
しかも、その不条理を受け入れることは、社会に見捨てられるということなので、不条理とわかっていて受け入れなければならない。
不条理の中で努力したのに、結局は不条理なのだから、何の意味もない。
不条理の二重構造だ。
負けました。ずっと負けてました。
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