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Tomoのプロフィール

みなさん、初めまして、異文化について考える事が好きなTomoです。私は去年までカリフォルニア、サンディエゴの大学で非常勤講師として異文化コミュニケーションを教えていたのですが、コロナ後大学のプログラムが閉鎖してしまい、フリーターになったのを機に、YouTubeで海外にいる日本人に「ナゼ海外に出たのか?」というテーマで週一でライブ配信インタビューを始めました。興味のある方はこちらから。

https://www.youtube.com/channel/UCuViZO2ij8ESIDtZ6jPIkNg

そんな私は何故海外に出たのか?その話をしたいと思います。

私の生い立ち:

私は元々鹿児島出身なのですが、異文化に触れる機会が多い家庭に育ちました。父も母も昔から海外の文化に興味があったのか、私が小さい頃は日本の音楽はほとんど聴いた覚えがなく、家ではビートルズやスティービーワンダーなど英語の曲がいつも流れてました。そして父と母も海外の人との交流が好きで、昔から鹿児島港に着くクルーズ船の乗客をホームステイに受け入れており、私も小さい頃から海外の人達を触れる機会に恵まれました。

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クルーズ船のお客さんを家に招待した時。(私が地黒なのが分かる。汗)
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クルーズ船の船員さん達と。真ん中が私。

私が小学校の頃は成績表が1から5まであった(5は音楽、体育が1!)ということで父が感心したほどの、いわゆる可もなく不可もないフツーの、どちらかというとトロい子でした。外にも全然出ず、休み時間はずっと本を読んでいるという本の虫で、友達も特にいなく社交性に欠けていました。でもその頃すでにカナダに移住していた私の母の従姉夫妻から毎年のようにハロウィンのグッズが送られてきたりして、海外の文化やイベントには興味を持っていたのです。そして小学校6年生の時に英語を教えていた母とフランス語を教えていた叔母に連れられて初めてイギリスとフランスに行き、海外とはこんなものか!と目覚めたのです。

イギリスでホームステイした時にお茶を点ててあげた時。そこの息子さんは空手を習ってたので、空手着で参加。
フランスの小学校の生徒たちと。私の後ろにいるのは当時鹿児島でフランス語を教えていた叔母。

そして私の母が38歳の時に、昔から夢だった海外留学をしてみたい、と2年間シアトルに留学したのですが、その時中学生だった私と小学生だった妹もついていったのです。日本では何も取り柄ももない私がアメリカの学校に入ったら突然成績も良くなり(アメリカの教育、特に算数が簡単すぎた、ということもありますが、先生たちがとにかく頑張ると褒めてくれた)引っ込み思案だった私もだんだんと自分に自信がついていったのです。

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アメリカでは12歳以下の子供は子供だけで家に置いてちゃいけないという事で来てもらった初の美人ベビーシッターとその妹と。
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シアトルでは1-5 年生までが小学校、6-8 年が中学だったので、8年生、つまり中学最後の年に日本文化の作動についてプレゼンした時の先生との写真。

ちなみに、うちの母方の家系では、母の別の従姪がイギリス人と結婚し、イギリスに移住(現在はニュージーランド在住)、母の妹はフランス人と結婚し、フランスに移住、私の妹はイタリアに移住しています。(私だけ何故かアメリカなんですが)

母が留学したのはもちろん理解ある父のおかげで、父も私達が留学するのを応援してくれて日本から仕送りしてくれてたのですが、あいにく2年後にお金が尽きて日本に帰国することになってしまいました。でも!その時の経験から私達姉妹は海外が性に合っていると思ったのか、のちのち私の妹は米国の短大卒業後ファッションの仕事をするためにイタリアに移住し、私はというと、高校卒業後、日本の受験に落ちたのをきっかけにアメリカ留学を決め、大学では心理学を専攻しました。

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大学の卒業式の写真。ワシントン州立大学はマンモス校だったので、卒業人数が半端なく、卒業式はフットボールのハスキースタジアムで行われます。人数が多いため、名前は呼ばれずさながら給食の配給のように次々と証書のカバーを渡されるだけ。もちろん中には証書は無く、後で送られてきます。

その後学生ビザが切れたので帰国することになり、一旦日本の外資で4年ほど働いたのですが、運よくグリーンカード抽選の当選をきっかけに、再度渡米。それから米国で、米系と日系の会社にて計10年近く働き、そのまま人生を送るのだと思っていました...が!ある時企業での仕事が合っていない自分に気づいたのです。「収入は安定しているが、このまま一生自分に合わない仕事をしていくのか?それとも収入は安定しなくても、自分の興味のある心理学に戻るのか?」

数年考えた末、38歳の時に組織心理学を学ぶ為、大学院に行く事を決意しました。この専攻を選んだのは、ただの心理学だけでなく、今までの組織での経験も活かせるという事からです。また、これまでの国際企業勤務から異文化間のビジネスやマネジメントのやり方の違いに興味を持ち、異文化マネジメントについても集中的に勉強しました。そして今は非常勤講師としてサンディエゴの大学で異文化コミュニケーションを教えていると言う訳です。

大学院の教授とクラスメートと
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一時帰国した時にゲスト講師として日本の大学で教えた異文化理解のクラス

私はこの40代に入るぎりぎり前の進路転換は人生で最高の選択だったと思ってます。それは、収入は安定しなくても、人生で一番自分に合った生き方が出来ているから。現在はというと、カリフォルニアの私立大学で非常勤講師をするかたわら、翻訳と通訳をしてます。また依頼があった時は日本の大学でゲスト講師として異文化の話をしたりもします。(コロナになってからはオンラインですが、一次帰国した際には現地に行ったりもしました)

そして今は持っている趣味が、小さい頃にやっていた音楽を40代になってから再開したピアノ!現在はサンディエゴ初のオール女性のサルサバンド、Sabrosas Latin Orquesta でピアノを担当してます。(今の私のパッション!)

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Sabrosas のレディース達と
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バンドで以前担当していたバイオリン
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最近担当する事になったピアノ

このnoteでは私の活動や、私が海外に住んでいて日々感じる異文化の事を書いていきますのでもし気が向いたら遊びにきてください。みなさんと一緒に異文化の話を分かち合えたらな!と思っています。

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