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市民性が育む社会の流れ〜互いの市民性が出会い交わされ、響きあい大河となる〜

私たちはすでに影響しあっている


世界の、目の前の、SNSの・・様々な存在や出来事に私たちの身体や心が思わず揺れて動くことがあります。
戦争のニュースをみて心がざわっと痛んだり、SNSでの誰かの発信に思わず身体がギュッと緊張したり、雨の日に小さく震える子猫に思わず目が釘付けになったり。

初めて出会った人と、言葉は通じないのに何かが交わされた感覚に心身が弾んだり、途方に暮れている時に目の前にそっと置かれた手やまなざしに世界の色が変わったように感じたり。

思わず心がぐっと揺れて身体が震えたり動いたり固まったりするということ、そっと見ないようにすること、私たちに起こるいろんな反応は、私たちの心身が、共にある様々な存在や出来事に自ずと影響を受けているということの現れでもあります。

ひらかれたWEという感覚

今この瞬間も、私たちは様々な存在と共にあり、時間や空間を超えて世界を共にする様々な存在の影響を受けています。
私たちの暮らしには本来、さまざまな人、人だけではないたくさんの存在互いに開かあい、それぞれの中にそれぞれが存在しています。

そこに起こるさまざまな影響を純粋な関心とともに見つめ、それを受けて自分に起こった反応を大切に受け取り、自分の振る舞いの影響を考え想像し、応答すること。
その振る舞いそのものが「市民性」としてのresponsibility=応答性という責任であり、その応答が繰り返され、重なり、広がって響きあって、社会が立ち上がり、文化が醸成されていくことでもあるのではないかと思います。

私たちの中にはすでに市民性があり、様々なことに応答する心身の可能性を持っています。
アメリカのハーバード大学の心理学の研究によると(*「Digunity」by  Dona Hicks)、私たち「人間」は、尊厳ある一人の人としての関わりの中にあると、自ずと、自分と共にある様々な存在を尊厳の中で関わろうとするという力を持っている一方で、自分の尊厳が損なわれるような環境の中にあると、自分を危機から守るための反応を持って様々な存在と関わろうとする傾向がある動物でもあるといいます。

毎日の満員電車、一人の人である前に肩書きや組織で自分が判断されるような環境や自分の声が届いているのか見えない構造、強い感情にアクセスしやすいセンセーショナルな発信。
  私たちの暮らしには尊厳というものを不可視化する様々な環境や構造があり、それにより、市民性ある応答をする前に、例えば、自分の反応や
見なかったことにしたり、誰かの尊厳を傷つける言葉を発したり、自分を麻痺させたり、反射的に反応することで自分を守らざるを得ない状況があるかもしれません。
けれど、同時に、エレベーターの中で「どうぞ」と互いに言い合いながら生まれる挨拶や、いってらっしゃいと交わされる心、今この瞬間の海の向こうの大きな痛みに自分が加担しているかもしれないというまなざしを持って生まれる振る舞い、SNSでもしかしたら偏見を強化するかもしれない投稿を前に、深呼吸してちょっと立ち止まって、構造的な課題やすでにある知恵や工夫を共有する振る舞い。そんな日々の私たちの振る舞いそのものが誰かの尊厳に、そして尊厳の満ちた社会の文化に、自分の尊厳につながっているのかもしれません。

市民性は目に見えづらいかもしれません。
そんな見えづらい市民性が重なり広がり満ちていくことは、まるで氷が溶け出して水の流れとなっていくように、社会の状態が、緩やかに流れ動いていくような循環とも近いのかもしれません。社会自体は私たちの変化とともに生き物のように変化していますが、その変化の方向性は、一人一人の手元のひとひらの大切な市民性にとても関わりがあるのではないかと思います。

痛ましく暴力的な変化が繰り返し積み重なっていくだけではなく、尊厳に満ちた社会への道が開かれていく一つの大切なエッセンスが市民性でもあり、その市民性は私たちの暮らす社会の土壌を育んでもいます。

Sene of Being(存在へのまなざし・さまざまな存在がまなざす世界)


市民性は目に見えづらく、様々なことがサービスのなかで完結しやすい時代になくてもすぐに困る感覚はないのかもしれません。
けれど、
Sense of belonging=ここにいて大丈夫だと感じる感覚、
Sense of agency=自分の存在から社会が立ち上がり、様々な存在と、そして社会と影響しひびきあっている感覚
Sense of being=自分の、そして様々な存在を互いの中に感じる感覚
といった感覚に開かれた社会の文化は、サービスだけでは難しく、まさに市民性から生まれる応答の繰り返し、重なり、広がりから育まれていくのではないでしょうか。

その感覚を誰もが感じあい、開かれているということは、社会の土壌が豊かであるということでもあるのだと思います。

土壌が枯れてとても乾燥していると、危機が起こって土壌がひび割れた時、そこは大きな亀裂となることがあります。
けれど土壌が豊かで様々な生物の足場となり水を保持する力を持っていると、ひび割れてもそこからまた豊かな土壌が立ち上がります。

異なる環世界のまなざしや感覚が開かれ響き合う時


すでに誰もに「ある」市民性が交わされ重なり、広がっていくことこそ、
社会の土壌の豊かさに、そして社会がどのように流れをつくっていくか強く影響しているから、私たちは市民性へのまなざしを大切にています。
それだけでなく、その市民性が「ない」かのように暮らすことは、私たちの存在が影響しあい、響きあい社会を育んでいることを私たちが忘れて、社会に起こることに応答しづらくなる構造を強化してしまうとも考えています。

互いの存在に敬意を持ちながら、互いに純粋なまなざしを向け、応答に身体をすませてみること。
自分の振る舞いが、誰かに、何かに影響し、自分もまたその影響を受けていることを受け取ること。
私たちは互いの中に互いの存在があることを体験し、互いに響き合いながら「在る」ことに応答してみること。

今この瞬間も世界のあちこちに立ち上がる市民性は、誰かの市民性とひびきあい、重なりあい社会の状態が変容していきます。
過去と今は確実に違うように、今の私たちの手元から明日の社会は立ち上がっています。


市民性のゲシュタルト崩壊が起こりそうなくらい市民性という言葉を多用してきましたが、これからも、ひとつひとつの生命・存在がまなざす世界から捉えた市民性のあり方と出会い、市民性を交わしながら遊び、探索しながら揺れながら、紡いでいきたいと思う最近です。
                                                                                                                 2024/02/20


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