【ネタバレ有】舞台『ビートルジュース』 考察・感想つめつめ
私の兼ねてからの担当が主演を務めるミュージカル『ビートルジュース』初観劇に行って参りました。
9/21 17:00開演の回です。
あまりにも私情ですが同じ回にもう1人の担当の佐野晶哉くんが観劇していたらしく、担当と一緒に担当の舞台を見るという謎現象を経験しました。
あと複数回入ったフォロワーさん曰く、今日の観客はゲラの人が多かったらしく、ジェシーくんの調子が良かったらしい。
今回はアドリブも多いし、アドリブとの境目が分からなくなるくらい台本もコメディ調だったから、客のリアクションによってやりやすい日やりにくい日があったんだろうな。
今日はソワレのみの1公演、前日前々日と2日間休演が続いていて、更にその前の日もマチネだけだったことも原因なのかも。
要するに3日ぶりのビートルジュースだったんだね。
見て見て〜なビートルジュースのキャラクターにもマッチしたかわいいジェシーの調子の良さ。
あんまり担当との共通点を見つけたくなるようなキャラクターではなかったけど、素敵でした。
さて、以降ネタバレやら勝手な考察やら疑問やらなんでもありです。
円盤化を期待して未観劇で何も知りたくないという方はブラウザバックをお願いします。
原作映画は見ていませんので疑問点もどっかで解決してるのかも。
そもそも今回の舞台も1回しか見ていないので、いろいろ見落としてるかも。
セリフも記憶でしかないので言い回しとか間違いまくってると思う。
良い方のみお進み下さい。
まずはジェシーの演じるビートルジュースについて。
なんかもう最初から最後までジェシー節全開というか、
ジェシーではなくビートルジュースなんだけど、
ジェシーじゃないと演じられないビートルジュース
というか。
だからジェシーはジェシーだし、それ以外の何かに見えるようなことはないんだけど、でもちゃんとジェシーその人とは乖離したビートルジュースな、凄く変なところで調和した存在だった。
ビートルジュースが初っ端に登場してメタ台詞と世界観の説明が終わって、アダムとバーバラが出てきて一旦第一段階の興奮が落ち着いたあたり。
私が一番に思った事は、「なんか凄く前向きに死にたくなってきた」ということだった。
これが一切マイナスな感情でなかったのが凄まじまいところ。
死ねば感情も感覚もなくなる、それはとても幸せなんだ、といった旨のセリフをビートルジュースが言うOPなのだけれど、引き込まれ方が半端じゃなかったというか。
それはいいなぁ、それなら全然死にたいなぁ!
死ってマイナスなことじゃないんだ!
なんて私らしくもない純粋な心で真っ向からセリフを受け止めたのを覚えている。
多分あの時、まだそこにいるのがビートルジュースではなくジェシーであるという認識が強く、
そして何より、"ジェシーの言葉は本気だ"というファンの無意識下の信用を引きずり出す構成。
そこにビートルジュースとしてのセリフを乗せ、共通点のあるジェシーがビートルジュースを演じて言っているからこその説得力を生み出していた。
映画でも舞台でも出来の良いものほどきちんと緩急はあるもので、落ち着いた瞬間に自分の没頭っぷりに毎回驚かされるような舞台だった。
いやぁ怖いこと。
何がって、近くにいたら絶対に惹き込まれちゃいけないタイプだと分かっているビートルジュースにまんまと惹き込まれてしまっていることを客観的に自覚しつつも、抜け出せないあの感覚が。
ビートルジュースの求めていた、他人の恐怖の感情をこんな形で叶えてしまっているのもまたなんとも。
そもそもジェシーの言葉には宗教的にすら思える人集めの才があるもので、
ジェシーが本気で演じているビートルジュースのあのセリフには、間違いなくジェシーの魂が乗っていたんだなぁと思わざるを得なかったのだ。
逆にビートルジュースのことは、劇中では誰も彼のことを信用しようとせず、話を聞いた上で協力を拒否されるシーンが何度もあった。
一人でダジャレに一発ギャグ、クネクネ変な動きを繰り返し周りを笑わせ、偶に失笑させ、しつこくやるから時間は押すし無茶ぶりで巻き込み迷惑を掛けて、いじりいじられ、でも本質は目標に向かって突き進む、純粋で真っ直ぐな青年(?)。
こんなにも共通点のあるこのふたりの、決定的な差とはなんなのか。
私はその差を、ごくごくシンプルな行動理由であると考えた。
ビートルジュースは正直めちゃくちゃ構ってちゃん(自分に対してリアクションをして欲しいから脅かすという意味で)なのに対し、
ジェシーは周りに笑って欲しくてワイワイしてる人という印象が強い。
(だからジェシーは盛り上げる必要のない場面ではかなり静か)
要するに、ジェシーの本質にあまり「構って欲しい」を感じないせいでもあるのかも。
後々に考察はするが、親に愛されて育ったジェシーと、毒親に邪険にされて育ったビートルジュースの差なんだろうなと思う。
あの親(ジュノ)なこともあって、ビートルジュースに兄弟がいた気はしないし。(確信はないが)
妹と8歳差のジェシーは8年間一人っ子として育ったわけだし、親の影響だけをもろに受け続ける一人っ子の人格形成が基盤にあるとすれば、ここには確実な差があるだろう。
まあこの辺の考察はまた後ほど。
さて、個人的に刺さったビートルジュースのセリフ回し。
言葉選びという意味でも下ネタを言うという意味でも、とことん品がない男、ビートルジュース。
「あなたを見ていると鳥肌が立つ!」と言うバーバラに対して「奇遇だね、僕は君を見ているとチ○チ○が立つ」と言い放ったのを聞いて頭を抱えた。
しかも旦那の前で。
あー自担、パブイメ的にはそうでもないのかもしれないけど、実はファンからリアコだと言われている自担。
それから少し遅れて、あ、すごく頭の回転が早いバカなんだなとも思った。
これはリディアを騙してバーバラを成仏させようとしたり悪知恵の働くビートルジュースの賢さの一端なのかと考えてみれば、割と後々納得がいったところでもあった。
まあ、こんな下ネタが伏線にはなるとはさすがに思っていなかったけど。
更には、普段マイナスな言葉を避けるジェシーの口から「死ねよ死ねよ死ねよ早く死ね!」「ふざけんなぶっ殺す!」「皆殺しにしてやる!」等の暴言が放たれる今回の舞台はなんとも…………言えない感情に苛まれた。
出てきた初っ端から「スマホは仕舞え。鳴った奴は殺すからなぁ!」と悪魔のような高笑いで客席に注意喚起するビートルジュース。
わぁ……殺されてぇ…………。(本音)
開演前に絶対に鳴らないようにめちゃくちゃ確認したにも関わらず、本当に鳴らないか不安になった。
休憩を挟んで後半が始まる前にもきっちり確認しておこうと思えたし、あのセリフを言わせたのはいいアイデアだと思う。(?)
他にも「何があってもShow must go onだ」「ミュージカルは最高だな!」等メタフィクション的発言も目立ち、そこから境目無く徐々に作品の世界観に引きずり込んでいくような……。
いや、もともと私たちは外側から作品を覗いている人間で、それを分かっているビートルジュースが、そのメタ発言の時だけこちらを覗き込んでくる感覚に近いのか。
生きている人間たちからも見つけられず、死者と共にネザーワールドへ行くこともない、世界の狭間で双方の世界を覗くようなビートルジュースの発言としては、後者の方が近い気がする。
とにかく、作品中の世界は勿論、観客たちを観客という立場のまま巻き込んでくるビートルジュースは、なんだかジェシーよりもジェシーらしいようにも感じられた。
輝いているジェシーをただ感動と共に見ている感覚に近いアイドルとしてのジェシーよりも、該当セリフのあるビートルジュースの方が舞台上に観客を強引に絡ませる力が強いというか。
かといってアイドル的なわけではないから、妙な感覚ではあるけど。
おそらくSixTONES自体がめちゃくちゃ親近感のある、近所の兄ちゃんのような、同級生のようなキャラクターとして売っているとは言い難い
(ANNのイメージはあるだろうが、彼らは実の所リスナーともしっかりと一線を引いている事がヘビーリスナーには容易に察せられることだろう)
ことから、
更にジェシーは女性共演者と一定の距離を保ち、スキャンダルについてもしっかりと対策を講じ、本当は引っ込み思案で静かな性格をアイドルとして生きていく為に矯正するような、
正直身近さとは縁遠い存在である。
故に、ジェシーは舞台上の遠い存在だ。
しかし、性格を一言で言えば自己中自分勝手マイペースキモイおじさんetc.なビートルジュースは、プラスばかりのジェシーよりいくらも現実に近い。
ビートルジュースは、より私たち観客に近いステージで行われていたように感じたという話だ。
全部引っ括めて、円盤になって欲しいような、なって欲しくないような。
いや、なってほしいけど。
けど。
ジェシーの舞台演技が映った円盤ってあんまりないし、主演で後世に自担のこの下ネタ映像が残ると思うと少々…………
いややっぱり全然欲しさが勝つな。
円盤お願いします、松竹さん、フジテレビさん。
チ○チ○くらいの発言なら許されるよね?
次は、ビートルジュースの性格について。
オチ付近のシーンから。
なんの躊躇もなく母親をサンドワーム(蛇)に食わせた事に、とにかく驚いた。
軽口が止まらなくて、下品な事を言って女性を困らせ、アドリブでリディアが笑ってしまったら嬉しそうにして、承認欲求が強く、悪戯心で他人を振り回す気ままでマイペースで迷惑なビートルジュース。
何度も言うが、あんな人そうそういないことは理解しつつも、あまりにも人間臭い瞬間が目に付いてしまうキャラクターだった。
しかしあの瞬間、「あ、この人やっぱりおかしいんだ」と肌が粟立つのを感じた。
普通じゃないんだ。
全然心開いちゃダメじゃん。
当たり前のように親を殺して、その後に親を食わせた蛇相手に「昨日何してた?」と世間話を振って笑えるような人なんだ、と。
あのワンシーンで、今まで少しずつ魅力的に見え、親近感が湧き始めていたビートルジュースが一気に、
どれだけ異様な存在であり、その異様さに辿り着くまでの"今までの孤独の重さ"を痛感させられた気がした。
ああ、現実に存在するはずのジェシーを超えてぐっと私たちに近付いて来たはずのビートルジュースがぐんと遠くの存在だったと気が付くあの感覚。
考えざるを得ない。
目の前の彼が、なぜ遠くの存在になってしまったのか。
元は人間であるはずのビートルジュースが、母親には産まなければ良かったと言われ、ネグレクトに遭い、死んだ後もずっと孤独。
原作映画では1000歳と明言されているらしく、それだけの長い時間誰にも認識されず、きっと考えていたのは生前の事だろう。
ビートルジュースの生前の記憶は、恐らく母親のこと。
恨みや恐怖だけが募り、恐怖から再会して数言目に鞭を打たれる為にお尻を差し出し、怨恨から躊躇もなく母親を殺すに至る。
いや、長年の恨みが晴れたならもっと喜んでもおかしくはない。
そうではなく、ただ人を殺す事に抵抗が無くなるくらい心が麻痺していたのか。
それは"死人には感情がない"ことが明言されていた事と繋がるのか?
ビートルジュースは、どれだけの孤独と悲しみを抱えてこれまで世界をさまよってきたのか。
ここで、少々疑問が生じる。
死人の感情については、そのものを示すセリフもあったし、間違いのない設定ではある。
リディアと結婚して生き返ったビートルジュースが「生きてるって感情のジェットコースターみたいだ」と、幽霊時と比較したようなセリフもあった。
しかし、死人に感情がないという割には、ビートルジュースの行動や言動には波があった。
さらに、アダムとバーバラも心優しく真面目であるという設定が幽霊になったあとも続いていた。
これは感情由来のものではないのか?
それだとキャラ立ちがしないから作品として面白くない、といメタ的理由で除外されているわけでもあるまいに、疑問として残ったわけだ。
ビートルジュースの行動から見ていく。
まず、根本として承認欲求は感情ではないのか。
他人に認識されたい、脅かしたい、友達が欲しいということはセリフで明言されている。
認識されたいについては、母親に自分を見てほしいというところから。
友達が欲しいということについても生前からの願いでもおかしくない。
しかし、脅かしたいというのは死んでから出来た願いではないのか……?
確かに、かまって欲しいという性格が生前からなら幽霊のイメージに合致した願望を抱きやすい状況ではあっただろうけど。
それでも、死んでからも願望が増えるなら、感情はあると言っていいだろう。
更に、屋根の上でリディアが名前を2回だけ言ってビートルジュースを揶揄うシーン。
からかわれる度に歓喜し落胆し、舞台上で土下座し走り回りずっこけ暴れ回るビートルジュース。
いや、それは感情のジェットコースターでは……?
まあ、これでも生きてる人間の感情を小さく小さくしたものを、ビートルジュースが性格上オーバーリアクションしてるだけなら……
なんというか、寂しさすらあるけど。
それに、極めつけは女好きという設定。
クリーンなイメージが強いジェシーが演じているからかそこまで女好き感がなかったのはともかく、女好きらしいビートルジュース。
下ネタを言う相手は殆どが女性相手であったし、困らせる為にわざわざ下ネタを選ぶ辺りが、ビートルジュースに性欲がある故の事ではないかとも考えられる。
幽霊には生殖機能が必要ない為、エロい事を考えると逃げていくという話があるが、ことビートルジュースにおいては真逆らしい。
ある意味それが本物の性欲でなかったとしても、下ネタを投げ掛けた相手のリアクションを望む事は感情なのではないかとも思う。
ビートルジュースの感情についての疑問は以上だ。
アダムとバーバラについても軽く触れておく。
言わずもがな、ふたりはビートルジュースと組むか否かと悩み、リディアが早まらないよう焦り、リディアの行方を心配し、ビートルジュースの勝手に怒り、真っ直ぐ生きることを決心し、そして愛し合っていた。
これはとても無感情とは言えないだろう。
下手をすれば全然ビートルジュースより激しい。
少々脱線するが、そもそもビートルジュースにも生きていた頃があったはずだ。
母親を探しにネザーワールドへ行ったリディアに対し、ジュノが「絶対に見つかりはしないさ」といったセリフを吐くシーンがあったが、そもそもジュノとビートルジュースは死後に再会しているはずである。
だったらリディアが母親と再会出来ないと断言するのは些かおかしいように感じる。
いや、ビートルジュースはネザーワールドへ行っていないはずだし、特別枠なのか……?
それとも、舞台上で初めてビートルジュースとジュノが顔を合わせたあのタイミングで再会していたのか……?
もしくは、アダムとバーバラが死んだ時に「アンタら運がいいな、一緒に死ねるなんて滅多にないぜ。無理心中でもなきゃ」といったビートルジュースのセリフがあったが、もしかしてビートルジュースは母親の無理心中に巻き込まれて死んだ可能性が……?
なんて勘繰りもしてしまう。
ともかく、これがリディアに対する意地悪だったにせよ、何かしらの忠告だったにせよ、それは感情由来の発言ではなかったのかという疑問が残る。
さて。
これを網羅出来る仮説として、"一定以上の大きな感情の起伏がゼロになる"というものを立てることが可能ではある。
そうすると、ビートルジュースが近しい人を失った瞬間のリアクションの差についての違和感が無くなる。
比較したのは、友人として選んだアダムとバーバラに拒絶された時のビートルジュースと、サンドワームにジュノを食わせた時のビートルジュース。
アダムとバーバラのシーンの後、ビートルジュースは屋根の上で体育座りをして分かりやすく落ち込む。
そこにリディアが来て、自分のことが見える生きた人間だと喜ぶことになるのだが、それは置いておいて。
とにかく、拒絶されたことに大変落ち込むのだ。
せっかく会話出来る相手が出来たにも関わらず、屋根の上なんかに逃げるほど。
相手の迷惑など考えそうにもないビートルジュースなら、自分にリアクションを起こしてくれる相手であれば構わずに嫌がらせに近いちょっかいを出し続けそうなものなのに。
そして、サンドワームにジュノを喰わせたシーンでは、ビートルジュースはなにひとつ目立った反応を見せない。
実の母親が目の前で死んだというのに、母親を喰ったサンドワームに世間話を持ちかけその場で逃がす親不孝っぷり。
自分が手を下したということがプラスにもマイナスにも働いていない、まるで人を殺めた自覚がないかのような彼は、あの出来事に対してだけ感情が無かったのではないかと仮定したくなったわけだ。
もちろん、ジュノがたった今喰われたことを認識していないわけでもないのだし。
違和感があるくらい、ただただリアクションがなかった。
が。
もしもこの仮説が正しいとすれば。
アダムとバーバラは良心に一瞬だけ目を瞑って人を殺めたとしても、大きな感情の揺れ動きとしてその罪悪感はゼロになった可能性が高い。
ビートルジュースへの協力は、真面目すぎて幽霊に向いていないと言われた初っ端の彼らでも良かったということになる。
そして、良心が人より強い彼らは人を驚かせる事に対しても少なからず躊躇があったと思うが、人を殺める罪悪感がないことを知れば、きっと箍は外れてしまうだろう。
胸が痛まないということは、人を殺めることはそう悪いことでは無い。
もしくは良識による罪の順位を信じ、
罪の最上位に値する殺人で胸が痛まないということは、それ以下の事も差程悪い事では無い。
という認識に徐々に書き変わる可能性がある。
これが加速すると、第2、第3のビートルジュースが生まれる気はしないか。
ビートルジュースの承認欲求はジュノ曰くおそらく生前からの性格であるし、他人の気を惹きたくて変な動きやらモノマネやら下ネタやらをしているとして片付ければ、
それを除いたビートルジュース……無慈悲で人を困らせる事に良心の痛まないマイペースな幽霊が完成するのではないかと考えた。
この鱗片を感じたのは、アダムとバーバラがリディアに協力し、チャールズとデリア、不動産屋(?)やらボディーガードの体を乗っ取り、追い出そうとした時のことだ。
ビートルジュース曰く真面目なふたりならすぐに拒否しそうな体の乗っ取り。
これにふたりは二つ返事で応じ、作戦に組み込んだ。
これはいいんだ……?と思わざるを得えなかったが、幽霊になって感情が薄れ、善悪の感覚が歪んでいたとすれば納得がいく。
正直な話、生きている人間の体を乗っ取れるのなら名前を3回呼ばせるのなんて簡単なのでは……とは思ってもしまうが。
乗っ取った状態で言っても魂が死人なら意味が無い、という場合であっても、
誰かを乗っ取り、その人の恋人やら友人やらを捕まえて「この言葉を3回言ってみて」とでも言えば、断る人の方が少数派なのでは……という気はする。
まあ、そんなこと言い始めたら大凡のオカルトフィクションは見られなくなるか。
うーん、違和感過ぎるから映画で回収されてて欲しい。
まあ舞台の最初の音楽の鳴り始めでビクついていたくらい驚かされるタイプのアメリカンホラーが苦手なので、見る勇気はないんですが。
次に、死人の年齢について。
ビートルジュースに対して「ライオンに食べられかけたものの不味くて吐き出されたシマウマみたいなおじさん」だの「キモいおじさん」だの散々な言いようをしていたリディア。
前者は屋根の上のシーンだから他に人はいなかったが、キモおじについては他のキャラクターと共に舞い踊っていた為、ビートルジュースは客観的に見て本当にキモいおじさんなのだろう。
例のキモおじの歌の中で「肌がボロボロ」「臭い」等とにかくいろいろ言われていた。
それに、アダムとバーバラを見てもさほど驚かない生きている人間たちは、ひとたびビートルジュースを見れば大声で驚いて恐怖し逃げ出す。
ビートルジュースの容姿は"そういうもの"だということだ。
ここでまたひとつ仮説を立てたい。
人は死んでも歳をとるという説だ。
なんとなくだけれど、ビートルジュースの性格はあまりにも子供っぽい。
それから、悪さをすると母親に尻を叩かれるというのも子供と親の関係値を彷彿とさせる。
故に、ビートルジュースは子供として死に、死んだまま体がおじさんまで成長し、肌やらなんやらが色々とボロボロになるまで歳老いたのではないかと考えた。
人間と関わらない以上、性格は子供のまま。
更には死ぬと生きている人間とは時間感覚がズレることも明言されている。
生きている人間単位で言うと1000歳のビートルジュースも、本人の感覚としてはそこまでの時間は経っていない。
なんなら、恐らく死んでまだ数十分、長くとも数時間程度しか経っていない※1感覚であろうアダムとバーバラは、自分の家から家具が運び出されるのを目撃している。
(「私たち、さっき死んだところなのに!」といったセリフがあった)
※1 「さっき」という表現から算出
つまり、単純計算で死人と生きている人間の感覚は24倍速以上の差である事が読み取れる。
だとすれば、生きている人間の感覚で1000歳のビートルジュースも、死んでからは41年しか生きていない感覚でいるという事になる。
死んで体は腐ってるなら顔色は悪いし目の周りは黒いしキモいし臭いかもしれないけど、おじいさんではなくおじさん止まりであることにも納得がいく。
子供っぽいビートルジュースの性格から仮定して小学校以下の年齢で死んだとすると、最大でも12歳+41年なので53歳
ドンピシャおじさんの年齢である。
リディアに言い寄るビートルジュースが「ロリコンどころの年齢差じゃない(結婚式中の歌の歌詞)」のは、生きている人間感覚の1000歳との比較だと思う。
(基準のリディアが生きている人間なので)
次は、もう1人の主人公と言ってもいいリディアと、ビートルジュースについて。
なんだかんだ、「私を見て!」という歌詞が印象的なリディアを表す劇中歌にもあるように、他人に自分の存在を認めて欲しかったリディア。
そして、言わずもがな透明である事を嫌がり、他人の視界に入り、さらには誰もに見えるようになり、生き返る事まで望んだビートルジュース。
(しかもお母さんであるジュノのセリフに「承認欲求の塊!」というものがあった)
おそらくこの2人は本質がとても似ている。
ビートルジュースの父親の話は出てこなかったから分からないが、親が原因で承認欲求を拗らせた2人、という意味では経緯も似ている。
一見性格は正反対にも思えるが、むしろジェシーとビートルジュースよりも本質的にはこのふたりの方が似ているのかも知れない。
ただその差は、生きているか死んでいるか……。
脚本家やら演出家を含めた観客は生きている人間であるから、生きている人間が正義のように描かれる結末で幕は閉じられる。
きっとそれは、私が今散々ビートルジュースに対して書いてきた「自分勝手」「自己中」「マイペース」などに匹敵する、私たちにとって限りなく都合のいオチだったのではないかと思うのだ。
ビートルジュースを主演ではなく主人公に置いた話ならば、こんなにも孤独に悲しんでいるビートルジュースを放り出し、自己中心的な目的を果たす為に屋敷を荒らして回るリディアこそが「自分勝手」で「迷惑」で「自己中」だったはずだ。
紙一重の役柄、という意味で、似たもの同士を背中合わせの構図で描いた作品だったのだろうなと、私は感じた。
そういえば、初っ端から愛し合っている夫婦が2組も出てくるにも関わらず、ビートルジュースには恋人も妻も想い人すらいなさそうなのもまた凄いなと。
女好きなのに女性の誰にも相手にされず、生き返る為だけにリディアに婚姻を結ばせ、でも好きと言われたら誰だって嬉しい……。
そりゃ恋人なんて出来ないわ。
満場一致の納得を提供してくれるの笑っちゃう。
そして中の人がジェシーなのも笑っちゃう。
オチとしては、リディアにはきちんとリディアのことを見てくれるようになった新しい両親と、信用出来るアダムとバーバラに囲まれ、恐らく彼女の承認欲求は満たされ、徐々に下火になっていくだろう。
リディアにとってはハッピーエンド。
ビートルジュースにとってはただの人生、いいや、幽霊としての1ページ。
悲しいことに、私たちはビートルジュースのごくごく1部しか見ることが許されない。
出来ることなら、これからビートルジュースが出会うもの感じること、その出来る限りを見守りたいというのに。
下品で最低で救いようのないキャラクターであるビートルジュース。
恐らく台本ではそのまま下品で最低な人だったのだろう。
しかし、ジェシーが演じることで、憎めない、どこか愛おしいキャラクターだと思わせる、役者としての才能を感じられる舞台だったと思う。
きっと、アイドルとしての中の人の事情を絡めた上でここまで楽しめる舞台にはそうそう出会えない。
脚本家、演出家さんに感謝の意を評しつつ、是非円盤化の方を御検討願いたいと思っている。
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