おやごころ ~ episode005 ~
いぶき福祉会後援会設立記念講演
竹下義樹氏の
「夢が障害者を育てる」をきいて
夢を語る 明るさと 強さと
2~3年前、友人に誘われて、谷汲山の本堂の下にある回廊に入ったことがある。そこは一条の光もない、まさに漆黒の闇の世界だった。狭いのか、広いのか、天井や足元はどうなっているのか、何ひとつわからない。時間さえ止まったようなその闇の中で、わたしは壁に張り付いて、そろそろ足を進めるしかすべがなかった。1、2分後には、また元の光の世界に戻れるとわかっていても、自分自身の姿さえ確認できない恐怖は言葉にならなかった。
時々、障害者の親同士で、「わたしたち親の気持ちは、当事者になってみなければわからないかもね」といった話をするが、そういう自分も、例えば目の見えない人の気持ちをどれほど理解しているだろうか。まして、自分自身が障害者になったら、ということは一度も考えなかったと言っていい。人はよく、代わってやれるものなら、と口にする。わたし自身も、子どもと代わってやりたいと心から思うことが何度もある。しかしそれが現実となった時の自分の姿や生き方まで深く考え、覚悟して口にしているかと言えば、そうではなく、親の切ない感傷だろう。障害を負うことは、誰かが借金の肩代わりをするような類のものではないことに改めて思い至る。
竹下さんは中学三年生のとき失明されたという。わたしは結婚して1年足らず、人生で最も輝いているはずの20代半ばで「障害児の親」になった。健康な子どもに恵まれ幸せそうな友人たちと比べ、なぜ自分は死後のことまで憂えなければならないのか、なぜ病院巡りと医学書片手の日々を過ごさなければいけないのか。そんな悶々とした気持ちを抱いて暮らしていた当時のわたしより、10才近くも若い多感な年齢で竹下さんは失明されたのである。どれほど深い絶望と挫折の中で苦しまれたことかと思う。講演でもそんな話があるのだろうと想像していた。ところが、ご自身が失明されてどれほど悲しく辛かったか、どんなに不自由だったかなどの話は皆無だった。大切なのは、過ぎ去った日々をいたずらに振り返ったり、どうにもならないことをグチっぽく語ることではなく、今をこう生きる、未来をこう生きたいと語れる明るさと強さを持つことだと教えていただいた。また、点字の司法試験を実現させて弁護士になり、そのうえ、健常者すら尻込みする山や岩登りやスキーなどへのあくなき挑戦は、障害を持つ人々に限りない夢や勇気を与え、同時に、障害者はこの程度とか、ここまでが限界といった社会の固定観念を打ち破る。
この道は 本当に正しいか
お話を聞きながらふと思い出したのは、先日テレビで観たトライアスロンに出場したアメリカ人父子の報道だ。健常者でも過酷なレースなのに、身障の33才の息子を乗せたゴムボートを53才の父親が引っ張って泳ぎ、雨の中、息子を前に乗せて自転車をこぎ、最後のマラソンでは車椅子を押して走っていた。わたしはその父親の姿に心を打たれ、心から感動したのだが、「なぜ出場したのか」の問いに対する彼の言葉はたった一言、「息子が出場したいと言ったから」というものだった。わたしは少なからず拍子抜けしたのだが、竹下さんは講演の中で「障害者だからあれもこれもだめと片付けず、いろいろな情報や体験とともに、たくさんの選択肢を提供し、本人の選択や意志を尊重すべきだ」と話された。あの父親もきっと同じ考えだったのだろうと今は思う。このレースの出場を決めたのは息子本人であり、従って主人公は息子である。自分はただ、彼の夢をかなえる手助けをしたにすぎない。インタビューのあの一言は、そういう意味だったのだろう。並々ならぬ困難を承知のうえで、自分で仕事や夢を選択し実行できる障害者や、それを理解し支え続ける周りの方に敬意を表し、心から賛辞を贈りたいと思う。
しかし、障害者の中でも、とりわけ重度の知的障害者の多くは、本人の意思が伝わりにくく、実際、わたしも本人に代わって選択している。それも迷いに迷ってである。正直言うと、わたしは知的な障害を伴わない障害者が羨ましい。わたしの子どもが自分で考え、自分で話してくれたら、どんなに嬉しいかといつも思う。
わたしの友人の子どもは、障害部位が下肢のみだった。週末を家で過ごし、いつも通り施設へ送って行ったとき、その子が突然「どうして僕をこんな体に産んだんや、妹は家で暮らせるのに、なんで僕だけここにおらないかんのや。なんで僕は歩けんのや」と泣いて怒ったという。友人はわたしに、泣きながら話してくれた。双方の気持ちを、本当に胸がつぶれる思いで聞きながら、それでも心のどこかでわたしは羨ましかった。知的な障害を伴わないが故に、人の何倍も深く傷つき悩み、苦しむことがあっても、それをいつか乗り越えて、子どもが夢を見つけ語るようになったとき、親はその実現のための応援も手助けも、具体的にしてやれるからである。
知的障害の子の親であるわたしはずっと迷ってきた。これまでの節目や岐路で、この道でいいのか、この方法でいいのか、不可能とはいえ、本人と相談もせず決めていいのかと、いつも考えてきた。しかし、言葉を持たない息子が「いぶき」の中で、仲間と共に沢山の笑顔を見せて生きてゆくなら、親子二人三脚の選択として正解だったとしたい。
夢からはじまる
1から2や、2から3にするのは比較的たやすいが、ゼロから1にすることに意義や価値がある。竹下さんが視覚障害者初の弁護士として同じ立場の人に道を作られたように、わたしたち「いぶき」も岐阜市で民間初の法人施設として良き前例となるよう、いろいろなゼロを見つけて、これからも頑張りたいと思う。
息子が「いぶき」に入って三ヶ月。仲間の明るさ、やさしさ、まじめさ、ひたむきさにわたしはいつも心を打たれる。健常者が時々忘れることを、その姿の中からたくさん教えられる。竹下さんが言われるように、夢が障害者を育て、そして、障害者が親や社会を育て、変わってゆくのだという気がしている。
これは1994年7月3日のいぶき福祉会設立総会において行われた、竹下義樹氏による講演「夢が障害者を育てる」に参加したお母さんが、通信「夢よひろがれ 第1号」に寄せてくれた感想です。講演はいぶき福祉会が始まる5日前、通信の発行はいぶき福祉会が始まって76日目のことでした。
「障害者だから」を理由にあきらめない。迷いながらも「自分たちはこう生きたい」と夢をもち、それを社会の中で実現させたいと願う人たちがいます。そうした人たちの傍らにいて支えつづけていくために、「親なき後」に向き合っていきたいのです。
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