おやごころ ~ episode009 ~
母は強し
わたしの娘は四十一才です。この子との暮らしで、何人ものたくましいお母さんに出会った
ずいぶん前のことだが、車の運転ができない障害児の母がいた。小さな彼女は、おんぶ帯で自分の背丈ほどの子を背負い訓練施設に通っていた。バス停までの道のりは遠く、雨も雪も降った。就学免除をなくしてほしいと、その姿で何度も市役所へ陳情にも行った。
このごろになって周りで聞くのは、同居の親や夫が大病を患い、その介護に追われているという人の話。さらに自らも病気や手術を繰り返していると付け加えられることも。それでも、母親が作業所への送迎をやめることはない。
なかには、六十をとうにすぎたというのに、若いころからずっと子どもの入退院につきそう人もいる。愚痴は山ほど聞いてきた。でも、決して子どもを責めることはしない。
今更ながら、障害者の母はすごい。ねばり強いと思う。
普通では体験しないような半生
川をさかのぼる凛とした鮎のように強く生きてほしいと我が子に「鮎子」という名を付けた。重度の知的障害と身体障害を背負って四十年を生きてきた。支えていればどうにか足を運ぶことができるが、独歩は難しい。心の中に思うことはたくさんあるが、伝える言葉を持たない。
鮎子と歩んだ四十年は、ほかのどの障害者の母親とも同じように、思いもよらないことの連続だった。薄い皮でも剥ぐように、ほんの少しの変化、成長を見つけたときの喜び。作業所づくりで出会った仲間や支えてくれた多くの人たち。病院やスーパーで人目もはばからず大パニックを起こした時の虚しさ。まるで天国と地獄を行き来しているような日々でもあった。
ふり返るに、わたしはきっと普通では体験しないような半生をおくってきたのだろう。鮎子がいなくてはならないわたしの半生を。
頑張り抜いている多くの母親に
そんな鮎子が今年の四月に完成したグループホームに入居した。入居当初は、彼女のシャイな性格ゆえに、生きた心地がしないほど心配だった。しかし、鮎子はわたしの予想を見事に裏切って、ホームでの生活を日常の一部分として受け入れ始めているようだ。生き生きとした表情でリビングに仲間と集う。その姿にわたしは心の底から安心する。そして、「どんなに障害の重い人にも働き、友人と生活をともにする場所をつくりたい」というねがいが実を結んだことを実感する。
今、強く思う。どんな親にもこんな着地点があれば良いのにと。
愛おしい気持ちのままに子どもを養ってきた日々。頑張り抜いている大勢の障害者の母が、せめて自分の身体が老いを迎えたころには、心底安心して子どもを託せる場所に出会えると良いのにと。
これは、いぶきに通う鮎子さんのお母さんが、「きょうされん(外部サイト)」の発行する月刊誌「TOMO」の企画「母はいつでも元気印」にあてた原稿を再編したものです。
鮎子さんがグループホームに入居したのは2020年4月1日、いぶき福祉会が始まって9,400日目のことでした。わたしたちは、我が子を愛してやまない親さんやそこで暮らすなかまたちと、「心底安心できる場所」をつくっていくため、「親なき後」に向き合っていきたいのです。
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